2014年1月 ブログ移転のお知らせ

このブログは古い形式で、サポートの対象外となりましたので
新しいブログに移転することにしました。


新しいブログでは、「最新情報」「森のエッセイ」「越後奥寂庵だより」を分けずに
1つのブログのなかで自由に掲載していきます。


ただし、私自身、「森のエッセイ」を気に入っていますので
新たな更新はしませんが、いつでも閲覧できるように残します。


新しいブログは以下になります。


http://innersilence.jp/blog/


よろしくお願いいたします。


投稿者 haruki : 2014年01月24日 10:40

農作業三昧


越後奥寂庵で2日間、農作業をして
その後、森の生活に戻り、2日間農作業をした。


日常生活のなかで農作業が占める割合が確実に増えている。


それは何より嬉しいこと。


あれこれ考えずに、身体を動かし土に触れる。


農作業が終わると、お腹が空き
ご飯を美味しく戴く。


食べ終わると、睡魔がやってくる。


そのような生活のリズム、身体のリズムは
何事にも代え難いものかもしれない。



投稿者 haruki : 2012年06月21日 22:42

畑の彩り


最近、畑では、ツルナシインゲン、オクラ、韓国唐辛子、
サツマイモ、チンゲンサイ、ルッコラを植え
育ってきたところで、チンゲンサイとルッコラは間引きをしている。


広いと思っていた畑が
もう植える場所がなくなってきたので、狭く感じてきた。


昨年秋に植えたニンニクを収穫すれば
1〜2畝空くので、そこには秋野菜を植えよう。


畑を始めてから3年目。
昨年は、震災の影響で畑をする余裕がなかったけれど
それでも着実に、農作業が身についてきている感じがする。


今年は、耕耘機を手に入れたのは大きい。
しかし、最初は分からないことだらけだった農作業が
経験を重ねることで、手早くこなせるようになったことの方が嬉しい。



畑のなかで一際元気なのは、ズッキーニ。


朝になると、日光を待ちわびていたかのように
星形の黄色い花が開く。


実はまだ小ぶりだけれど、それでもとても美味しく戴ける。



畑は完全無農薬栽培なので
害虫を寄りつきにくくするために
マリーゴールドなどのコンパニオン・プランツを植えている。


今は、除虫菊が綺麗に咲いている。


畑に花が咲くと、地味な畑が華やかになるのは、一石二鳥である。


投稿者 haruki : 2012年06月08日 09:14

農作業の恩恵


ゴールデンウィーク以降、東京で仕事がある以外は、農作業に励んでいる。
農作業をした翌朝は、全身筋肉痛になっている。


でも、畑に出て行くと身体がどんどん動き
日に日に身体が軽くなり、心身が元気になっているのを実感する。


農作業は、グラウンディング、身体構造、
筋肉と呼吸を活性化させること、忍耐力を学ぶことに、とても役立つ。


農作業を療法的に用いる園芸療法があることがよく分かる。



もちろん、完熟野菜が収穫できることは、何より幸せなこと。


もうすぐズッキーニの収穫が始まるのが、楽しみだ。


投稿者 haruki : 2012年05月30日 00:18

自給自足を目指して


昨年は、東京オフィスの引っ越しなどで忙しく
畑にエネルギーを注ぐことができなかったが
今年は、せめて野菜だけでも自給自足に近い状態にしたいと思い
中古の耕耘機を購入し、農作業に励んでいる。


昨年までは万能鍬を使って耕していたが
人力では、毎日農作業ができないと限界がある。


耕耘機があると、楽に耕せるし
耕作面積が格段に拡がった。



ゴールデンウィーク中に、キュウリ、トマト、トウモロコシ、長ネギ
ピーマン、シシトウ、ナス、ジャガイモ、ズッキーニ、ハーブ類を植え
もう少し暖かくなったら、オクラ、ツルナシインゲン、ショウガ
ルッコラ、チンゲンサイなどを植える予定。



完全無農薬はもちろんのこと、自然栽培を目指しているので
動物性有機肥料は最小限にして、植物性有機肥料をメインに施した。


メインと言ってもかなり少なめ。


これでどのくらい収穫できるだろう。
少し不安だけれど、楽しみだ。




農作業の休憩に、水分を補給してひと休憩。


この時期は、風が爽やかで心地がいいし
新緑の山々の風景にも心が洗われる。


農作業をしていると、いろんなことに気づくし
人間にも当てはまることが、思っている以上に多い。


人間も自然の一部なので、当然と言えば当然なのだろう。


投稿者 haruki : 2012年05月15日 15:35

土の記憶


徐々に農道に軽トラが頻繁に行き交うようになっている。
ということは、そろそろ農作業の季節だということだ。


ホームセンターには、ジャガイモの種芋が売られているので
そろそろ畑を耕して、ジャガイモを植えよう。


昨年は、初めてジャガイモを植えたけれど
あまり上手くはできず、小粒のジャガイモしかできなかった。


今年は、大きなジャガイモをたくさん作りたい。


そのためには、土作りだと思って
最近は、中古の耕耘機を売っているお店によく顔を出している。



ここのところ、うちの畑の隣りが賑わっている。


それは、遺跡発掘作業が行われているから。


今年に入って、農地をユンボで掘り返していたので
区画整理をするのかと思っていたが
実は、縄文遺跡の発掘だった。


パーカッショニストの土取利行氏が以前、言っていた言葉を思い出した。


「この辺りは縄文銀座だからね。」


どんなものが出てくるのだろう。


この辺りでは、水煙文土器がよく出土されているので
立派なものが出るといいなぁ、と期待している。



うちの畑の下にも遺跡が、たぶんあると思う。
というのは、現在農作をしている畑や田んぼは遺跡発掘をしないだけで
うちの畑の周囲の休耕地はすべて、発掘調査をしているから。


ということは、農作業をしている地面の下には
縄文時代の生活の跡があるということだ。



狩猟採集民族の縄文人には以前から興味を持っていたが
このように、自分が土を耕している場所に
縄文人が生活していたということは
とても感慨深いし、縄文人をリアルに感じることができる。


さあ、今年も農作業に精を出すぞ。


投稿者 haruki : 2012年03月22日 17:50

からだは魂にとっての住み家


今、越後奥寂庵の補修工事をしていて
毎朝、大工さんと電話で打ち合わせをしている。


保険会社と自治体による損壊調査のため
何も手をつけられなかったが
7月に入りようやく補修を始めることができた。


保険会社の診断は、半壊。


一見、それほど大きな損壊があるとは思えないけれど
基礎廻りにかなりのずれが生じていることから
そのような診断が下った。


そのために、基礎廻りには大々的に補修工事が行われている。


お金はかなりかかってしまうが
これを機に、今まで以上に丈夫で良い空間にしようと思っている。


今日は、1階の床下すべてに大量の炭を入れていると連絡が入る。


今度、訪れるのが楽しみだ。



大工さんがこんなことを言っていたのが印象的だった。


「こんな家はよう、手がかかるもんだよ。
 たびたび、床下に入ってよう、様子を観るもんだ。
 こんな家は、畑と一緒でな。
 まめに手を入れる必要があるんだよう。」


また、別の業者さんはこんなことを言っていた。


「家っていうのはな、住まねぇと駄目なんだ。
 住んでいる家は、見えるところが駄目になっていく。
 でもな、住まねぇ家は、見えねぇところが駄目になってくもんだ。
 だからな、住んでやんねぇと、家が傷んでしまうぞ。」


補修が終わってからは、なるべく越後奥寂庵に滞在する日を多くしよう。



大工さんたちの話を聴いていて
人間も一緒だな、と思った。


からだのなかにしっかりと存在し
からだからのサインに耳を傾けていれば
少しの変調から、からだの状態を知ることができる。


からだに対して五感を研ぎ澄ますことによって
変調だけではなく、何処に居たいのか、何を食べたいのか、誰と会いたいのか
何を不快に感じるのか、何をしたいのか、どう感じているのか・・・などなど
いろいろと自分自身のことを教えてくれる。


でも、外側にばかり意識を向けていたり
心ここにあらずで頭のなかで空想ばかりしていたら
からだを忘れ、抜け殻状態になってしまう。


そうすると現実ではなく、仮想空間に生きることになる。


からだにしっかり根づけば
心身は生命力に溢れ、からだの動きに優雅さがもたらされて
自ずと内面から輝き出すことだろう。



からだは魂にとっての住み家だと言える。


家と同様、いつもしっかりとからだのなかに
住んでいたいものだ。


投稿者 haruki : 2011年07月25日 19:45

純粋さ


3年前から、ある自治体で月2回ずつ介護予防教室をさせて頂いている。


介護予防教室というのは、65歳以上の方を対象にして
いつまでも元気に過ごすことができることを目的としている教室である。


教室では、免疫機能とセロトニンを活性化し
敵意、不安、緊張、混乱を鎮め、積極性と意欲を高めるために
パーカッションを用いてプログラムを進行している。


この11月から後期教室が始まった。


同じ参加者で12回、半年続けるので
今回の教室では、どのようなリズムが奏でられ
どのような気持ちの分かち合いが起きるのかが楽しみだ。



前期教室に毎回休まずに、遠くから杖を突きながら歩いてこられた
80代の女性をよく思い出す。


この方は、2年前にご主人を亡くされ、その後、欝をわずらっていた。

また、脳梗塞の影響で言葉が思うようにすらすらとは出てこない。



そのような心身の状態であり、一人暮らしでもあるために

ご子息が心配されて、介護予防教室を勧めたのであった。



この方が喋る言葉は、確かにとつとつとしていた。



しかしその一言一言が、ハートから発せられていた。



それは、感情とつながった言葉であり、自分に正直な言葉であり

言葉が発せられる前の息遣いや表情、手の動きから伝わる気持ちであった。

その一言一言は、私を含め、他の参加者たちの心に響き

その場全体を温かな空気で満たしていった。



ここで、その空気をお伝えできないのが残念である。



ただ、ここで言えることは

どんなに心に辛い思いを抱き、身体が思うように動かなくても

その場にいる人々の心を温かくするほどの純粋さを保つことができる、ということ。



私たちは、自分の価値を実感するために

地位や知識、ものを獲得しようと
あくせく努力している。



でも、この方のあり方から
人間にとって「本当に大切なものは何か」ということを教わった。



前期最後の教室が終わり、楽器を片付けて、車で施設を後にした。



少しして車窓から、参加者の一人がその方の手を引いて踏切を渡る姿が見えた。



お二人の歩いている空間には、教室にあった温かな空気が満ちていた。

言葉に尽くせない瞬間だった。


投稿者 haruki : 2010年11月22日 01:07

初雪


今朝起きて、窓の外を見ると
山の上が白くなっていた。


里山の木々は、紅葉し始めたところだけれど
山頂の雪を見ると、すぐそこまで冬が来ている感じがする。


紅葉が終わり、葉が落ちると冬に突入するだろう。



畑では、白菜、キャベツ、レタス、ブロッコリー、カリフラワー
スティックセニョールが大きくなり、畑に行くたびに収穫をしている。


残念ながら白菜は、苗を植える時期が少し早かったせいか
周りの畑に植わっている白菜に比べると、弱々しい。


季節に敏感にならないと、植える時期が分からないものだと痛感する。


「いつ何をすべきか」ということに敏感になることは
人間の成長にも通じることだと、農作業をしているとよく感じる。


ただ、いくら弱っていても、採れたての野菜は本当に美味しい。
白菜が、これほどみずみずしいものとは思わなかった。


最近植えた大根、ニンニク、小松菜、ほうれん草も
それぞれ元気に育っている。


タマネギ、エンドウ豆、スナックエンドウも早く植えよう。



毎年、この時期になると、地元の椎茸栽培をしている方に
薪ストーブ用の薪を持ってきて貰う。


軽トラからデッキに薪を積み上げた後
雑談をしていると、その方にこう言われた。


「畑、やっているねぇ。
 うちに使っていない農地があるんだよ。
 今、売りに出しているんだが
 もし売れなかったら、使ってもいいぞ。
 猿や鹿、猪が出るところだけれど、網を張れば大丈夫だから」


その方に教えて貰って、その場所に行ってみると
1反(300坪)以上ある農地だった。


用水路が通っているので水の心配もいらないし、良い土だ。


来年は、もっと畑を拡げたいと思っていた矢先だったので
とても嬉しかった。


その農地が売れてしまったとしても
休耕地を借りようと思っている。


来年は、耕耘機を手に入れないとな。



投稿者 haruki : 2010年11月02日 09:01

体得するということ


不便な場所に住んでいると
インターネットの恩恵を受けていることを実感する。


欲しい情報は、世界中から容易に手に入れることができるし
書籍にしてもCDにしても、森に居ながらにして手に入るのだから。


以前なら欲しい書籍は、都心の大手書店まで
わざわざ買いに出かけなければ行けなかったわけだから
インターネットは本当にありがたい。


メールにしても、日本にいる友人より
ブラジルにいる友人の方がレスポンスよくやり取りできる。


不思議でならないほど、便利な世の中である。



最近、「日本力」という本を読んだ。


編集工学者、松岡正剛氏と
写真家、エバレット・ブラウン氏の対談である。


この本は、日本人というものを考える上で
素晴らしい洞察に満ちていたので、面白くて一気に読んだ。



「ある場所に身を置くことで、初めて体得できるものがある」
という思いは、以前から強かった。


小学5年生から一人旅が好きで
その場所に行って、そこの空気感を感じ取って
写真を撮り、テープにその場の音を録音していた。


日常とは異なる場所に身を置くことで
自分の気持ちや価値観が変わる。


その新鮮な自分で、人や自然に出会い
自分と対話をすることが好きで旅をしていた。


このような経験から
「ある場所に身を置くことで、初めて体得できるものがある」ことは
私にとって当たり前になったのだろう。


この感覚は、今でも大切にしていて
最近では二つのことが当てはまる。


一つは、「日本人とは何か」を体得するために
わざわざ越後奥寂庵を手に入れたこと。


それは、越後という日本的霊性の故郷で
日本人の精神構造を現している古民家に、自ら身を置いてみたかったし
その地に代々住んでいる方々に、住民として出会ってみたかったから。


もう一つは、畑をやり出したこと。


これは、鈴木大拙氏がいう「大地性」、松岡正剛氏がいう「土発性」という
日本的霊性を少しでも体得したかったから。



実際にその場所を訪れて、その場の空気感を全身で味わい
人や自然と直に出会うことは、時間もエネルギーも要することであるが
この「手間暇かけること」がいかに大切であるかを
「日本力」を読み、あらためて認識した。


インターネットで検索して、容易に得られる情報では
「日本力」のなかの表現を用いるなら
「自分が探している以上のものはやってこない」。


どうやら手間暇かけて、身体を使って興味のあることを繰り返し行うことで
心が深くまで耕され、その土壌の上に
共時的な出来事や新しいものが生み出されるようなのだ。


越後奥寂庵や畑で起こり始めた
人との偶然の出会いや、思いもよらない出来事は
私の心が、それぞれの地で深まりだしたことによるのだと思う。



反対に、その地域を訪れてもいないのに借り物の知識によって
その場所をあたかも知っているかのように錯覚してしまったり
人と直に出会わずに、うわさ話や他人の言動をもって
その人のことがわかったつもりになると
思い込みの世界に生きることになる。


私たちは悲しいかな
容易に、思い込みの世界にはまり込み
それが真実であると信じて疑わない傾向をもつ。


そこに気づきという光がもたらされなければ
無明の世界に生きることになり
残念ながら、現実から離れ、煩悩が止めどもなく生まれてしまうことだろう。


インターネットを通して容易に情報が入る現代では特に
サイトやメールに書かれている文章を読んだだけで
「わかった」と錯覚してしまうリスクが高いと思う。



現代社会は、リズムやサイクルがとても速い。


このような時代では、大量の情報を即座に取捨選択する必要があるので
手間暇かけることは、効率が悪いと感じるのも仕方ないことだ。


しかし、このような時代だからこそ
手間暇かけてでも、実際にある場所を訪れたり
人や自然と直に出会って深く共鳴したりするなど
自分の身体で体得することが、心を耕すことになるのではないだろうか。


そのような「手間暇」の積み重ねにより
容易に手に入る借り物の知識で自分を飾ることなく
周囲からの情報に惑わされることもなく
自分の内奥が深まり、豊かな土壌になると思う。


私は、インターネットの恩恵に感謝しつつも
手間暇かけて、場所、人、自然と直に出会い、自分の身体で体得することを
これからも大切にしたいと思う。


投稿者 haruki : 2010年09月14日 23:48

土との触れ合い


この3ヶ月、「森の生活」も、「越後奥寂庵だより」も
読んでくださっている方には申し訳ないと思いつつ
更新できなかった。


それは休みになると、ほとんど外にいるために
パソコン離れをしているから。


森では朝から日が暮れるまで畑に出ているし
越後では、やはり朝から日が暮れるまで敷地の草刈りのため刈払機を担いでいる。


ニッカボッカに地下足袋を履き、足首に脚絆を巻き付けて
首には濡れたタオルを巻いてTシャツのなかに入れ
軍手をはめるのが、休日スタイル。


いずれにしても土と触れ合いながら
身体を動かすのは気持ちがいい。



いざ畑を始めてみると知らないことばかり。
地元の農家の方をはじめ、通りすがりの諸先輩方に相談しながらも
試行錯誤の連続だ。


みなさんからは、温かい言葉をかけて頂いているが
内心、「なにをやっているんだろう」と思われていることだろう。


それでも、畑を介して
地元の方々と交流できるのは嬉しい。



無農薬有機栽培で行っているので
この1年は何でも実験だという気持ちでいるが
先日、通りかかった地元の方にこう言われた。


「もう60年以上も農業をしているが、毎年ほやほやの1年生だよ。
 昨年うまくいったからといって、今年同じことをしても
 うまくいくとは限らない。
 なんといってもお天道様次第だからね。
 農業は奥が深いんだよ。」



「毎年、実験になるのか」と思うと気が遠くなるけれど
それだけ面白いとも言える。


そのように実験として始めたけれど
収穫してみると予想以上に採れて、消費するのに大変。


しかも、甘かったり、柔らかいのにしっかりしていたり
香りが強かったりと、本当に美味しくて幸せになる。



この3ヶ月で作った野菜は、以下の通り。


ミニトマト、大玉トマト、きゅうり
長なす、水なす、普通のなす
ピーマン、セニョリータ、バナナピーマン、万願寺、唐辛子
トウモロコシ2種類、長ネギ、シソ、バジル
枝豆、チンゲンサイ、ルッコラ



昨日は、終わった夏野菜を抜いて、完熟堆肥と有機肥料をすき入れ
土を作っていたところには、秋冬野菜の植え込みを始めた。


キャベツ、白菜、レタス
ブロッコリー、スティックセニョール、オレンジカリフラワー


これからも時間が許す限り、いろいろと植えていこう。



投稿者 haruki : 2010年09月02日 12:12

トラクターの威力


昨夜は、3時間半しか眠っていなかったが
朝起きて雨が上がっているのを確認して、実行することにした。


実行するのは、休耕地の開墾作業。


実は1年前、里山にある休耕地を地元の方からお借りしたが
この1年ずっと忙しくて、昨年は結局、刈払いもできなかった。


今年こそは、周囲の畑と田んぼに迷惑がかからないよう
せめて刈払いだけはしようと思っていたし
できるなら少しずつ開墾して、菜園を作りたいという思いもあった。


先週、休耕地の前を通ったときに
雑草がかなり背を伸ばしているのを目の当たりにしたことと
先週購入した越前と土佐の鍬を試したい気持ちもあったので
雨が降らなければ、今日開墾を始めようと決めていた。



休耕地に、鍬、鎌、刈払機、レーキ、シャベルなどを持って行く。


周囲の畑と田んぼの広さに比べると
休耕地は小さく見えていたが
実際に刈払いを始めると、広いこと広いこと。


100坪近くはあると思う。


刈払いが済み、刈った雑草をレーキで集める。


そして、鍬で土を耕していくが
長い間、休耕地になっていたのだろう
敷地一面に、ヨモギの根っこが蔓延っていた。


途方に暮れていると
お隣りの畑で作業をしていた知人が、声をかけてくださる。


「趣味で行うんだから
 楽しく農作業をしないとね。
 一度にやろうとするのではなく
 気長に、毎年少しずつ開墾して
 菜園を拡げていけばいいんだから。」


それもそうだな、と思い直して
開墾をしていると、車が停まり声が聞こえた。


声の主は、近くに住む知人だった。


「刈った草を脇にはけてくれれば
 トラクターを持ってきて一気にやってやるよ。
 トラクターだったら、このくらいの面積なら3分だから。」


10分ほどしたら、大きなトラクターがやってきた。


凄い勢いで土を耕していく。


感動ものだった。


感謝の気持ちを伝えてから
どのようにお礼をすればいいかを聴くと、こう言われた。


「そんなのいいんだよ。ボランティアさ。」


ありがたい。今度、お酒でも持って行こう。



越後奥寂庵にいたときに、好意で除雪作業を
あっという間にしてくれたことを思い出す。


越後は、摩訶不思議な土地で
何か困ったことがあると、必ず村人と出会って解決できたが
山梨もそうなんだ、と実感した。


大地の近くにいると、そのような共時的なことが起きるのかもしれないし
私が行くべき方向に、導いてくれているのかもしれない。


3時間半しか眠っていなくても
身心ともに、活き活きする農作業。


身心が活き活きすることは、自分へのメッセージ。


これからも時間が許す限り、農作業をしよう。


投稿者 haruki : 2010年05月25日 21:49

諏訪大社の御柱祭


昨日、越後奥寂庵から山梨まで戻る途中
長野県のある街に寄る。


なぜなら、その街には、僕のお気に入りのお店があるから。


南部鉄瓶、囲炉裏周りの器具、農具などを扱っている昔からの金物屋さんで
店主が全国を回って良い物だと認めたものや
職人さんに注文して作らせたものしか扱っていない。


今回は、南部鉄瓶を注文していたので、楽しみにしていた。


土佐と越前の職人さんが作った、お勧めの鍬2本と
左利き用の鎌もあったので購入する。


いつもその店に行くと
店主が飲み物と和菓子を用意してくださり
四方山話に花が咲く。



店主は、金物についてはもちろんのこと
文化、芸術、建築についての造形が深い。
それも地元のものから世界的なものまで広範囲だ。


芸術的な建築を行う
有名な建築設計事務所で設計をしていた経歴を持つので
話題は尽きない。


昨日も、居心地が良く3時間もお邪魔をしてしまった。



店主は、今年、諏訪大社の御柱祭の氏子として
一週間毎日祭りに参加したとのこと。


お店に訪れていた他のお客さんに、御柱祭の体験を店主が話していたら
今年は、死者が3名、けが人が数十名出たことに話が及ぶ。


そのことについて店主が言ったことが心に残った。


「亡くなられたのは残念なことですが
 彼らは死を覚悟して御柱に乗っています。


 6年間準備をして迎える祭りですし
 祭りに携わる人にとってみると、あれは最高潮になる瞬間なんですよ。


 あれは、イニシエーションであり
 山を信仰し、自然と神と自分が一体になる体験ですから
 死は、神と一体になることなので、彼らは死を怖れていないんです。


 そして、死の瞬間を子どもたちも観ている。
 そうやって、生と死を感じることも大事なことだと思います。」



精神性のために死を怖れない文化が
まだ日本に残っているとは、正直思わなかった。


店主に、北陸にある縄文遺跡はもともとウッドサークルで
それは聖なる魂を送る儀式なのではないかと
梅原猛氏が唱えていると話すと、店主はこう言われた。


「私たち人間が行うことは、昔も今もそれほど変わらないと思うんです。
 この辺りにも国宝の土器や土偶がありますから
 御柱祭の精神も、縄文時代のものが脈々と続いている可能性はありますね。」



僕は人混みが苦手なので、御柱祭を観に行ったことはない。


それでも、その場に居た人から話を聴くだけでも
伝統、祭り、歴史の重みを感じられた。


いつかは、御柱祭を観に行ってみたいと思った。


投稿者 haruki : 2010年05月18日 18:29

雪掻き三昧


越後奥寂庵だよりにも書いたが
先週は、豪雪地帯にある越後奥寂庵で5時間雪掻きをしてきた。


そして今日は、八ヶ岳セラピールーム緋彩で
2時間近く、雪掻きをした。


越後奥寂庵での、凄まじい豪雪を体験していると
緋彩の雪を観て、楽勝だな、と感じる。


越後奥寂庵での雪掻き体験がなかったなら
緋彩での雪掻きは、難儀に感じたことだろう。


人間は、比較によって認識しているのがよく分かる。



以前、北信州の飯山に住む知人がこう言っていた。


「雪が降らない地域に住んでいる人が羨ましい。
 だって毎日の雪掻きのために、どれだけの時間が無駄になっていることか。
 朝早くに起きて、雪掻きをしてから仕事に行かなくてはならない。
 その時間があれば、本も読めるし好きなことができるのに。」


確かに、豪雪地帯だったら、ひと冬の雪掻きに費やす時間は
凄い時間になるだろう。


それを数年単位で換算してみたら、雪掻きの時間と労力がなければ
何かを成し遂げることができると思う。


ただ、マイナスの面だけではなく、プラスの面もあるように思う。


雪掻きをしていると、頭がからっぽになり
今の瞬間に集中する。


身体感覚にも敏感になるし、足腰も鍛えられる。


忍耐強くもなる。


豪雪地帯で生活をされている方には
「なにを甘っちょろいことを言って」と叱責されそうだが
そのような心身への恩恵もあると思う。


越後奥寂庵で感じる、地元の方々の懐の深さと優しさは
豪雪という厳しさのなかで育まれたように感じるのは
果たして思い違いだろうか。


投稿者 haruki : 2010年02月02日 23:04

元旦の誓い


年明けてすぐに、近所の神社まで車を走らす。


真夜中に集落を抜けて、山麓にある神社に向かうが
他に車は見あたらない。


神社に行っても、誰もいなくて真っ暗かもしれないと不安になったが
実際に行ってみると、地元の方々が20人ほど集まっていた。


初詣をして、ふと見上げると
満月だった。


おみくじを引き
ふるまわれた甘酒を嗜む。


良い時間だった。



昨年末、1年間のスケジュール帳と日記を振り返ってみたら
1年間殆ど休まずに馬車馬のように働いてきたことに
あらためて気づく。


気持ちのなかでは
対処できなかったことが多かったと、自分を責めていたが
スケジュール帳を眺め
風邪も引かずに、よくもまあ、ここまで頑張れたものだと、思い直した。


これ以上、働くことは無理だった。


昨年は、このエッセイを書くにも
時間的にも気持ちの上でも余裕がなかった。


今年は、少しでいいから自分にゆとりを与えて
音楽や自然を深く味わったり、自然と対話しながら写真を撮ったりと
魂に滋養を与えようと、元旦に誓った。


投稿者 haruki : 2010年01月05日 23:23

ニセアカシアの花


初夏のような陽気になると
川沿いには一斉に、ニセアカシアの白い花が咲き乱れる。


この花の香りは、とても甘いので
川沿いを運転して、この香りが漂ってくると
誘惑に勝てずに、車を停めて外に出て
鼻先を花に近づけて深呼吸をしてしまう。


そうすると、甘い香りが胸に広がっていく。


一度、天ぷらにして食べたことがあるが
やはり食べるより、この甘い香りの方が好きだ。


以前から気になっているのは、この花の名称である。


なぜ、「ニセ」と付くのだろう。


数年前にアマゾンに行った際
アカシアの木から抽出したオイルを買ったことがあり
同じような甘い香りだった。


アカシアに香りが似ていることから
誰かがニセアカシアと名付けたのだと、勝手に思っている。



東京から中央道を走り、甲府盆地を抜けていくと
南アルプスが正面に迫ってきて、その後に右前方に八ヶ岳が見えてくる。


いつも運転しながら、この景色を見ると嬉しくなってしまう。


しかし、この景色に見慣れていても
八ヶ岳が見える前に、同じような裾野をもつ茅ヶ岳が見えてくるので
一瞬、茅ヶ岳を八ヶ岳と見間違ってしまうことがある。


そのように見間違いをする人が多いのだろう。
茅ヶ岳には「にせやつ」という愛称が付いている。



私たちは、違いによって物事を認識していて
違いがあるからこそ、それぞれを別個のものと認識できる。


その違いを、個性、固有の質といってもいい。


人工的なものは別にしても
自然界にもともと存在するものには
高低、優劣というものはなく、存在するものすべてが平等だと思う。


そのような自然界にもともと存在するものに
「にせ」という名称を付けてしまうのは
暴力的なことではないだろうか。


そのようなスタンスから、すでに自然破壊は始まっている。



私たちは、主観から抜け出せないことから
自分を基準にして物事を捉えるのは仕方のないことだが
だからといって、自分以外の存在を軽んじてはいけないと思う。


それは人間関係でも同じこと。


「にせ」とまでは思わなくても
「自分の方が正しい、優れている」というスタンスで人と関わるなら
どんなに表面的には優しくしても
私たちは、相手に対して暴力を振るうことになる。


それは、本人は無自覚でも、ちょっとした仕草に現れる。


そのような無自覚な暴力によって
どれだけ多くの人が苦しみ、辛い思いをしていることだろう。


私たちは、自分のエゴの働きに意識的になる必要がある。


投稿者 haruki : 2009年05月23日 01:08

素敵なご縁


先日、ネイティブアメリカンの部族出身で
30年間スウェットロッジの儀式を行ない、サンダンサーでもある方とその娘さんを
来日している間、アメリカの友人の紹介ということでお世話をさせて頂いた。


以前、アメリカの友人からは、そのスピリチュアル・リーダーは
お尻まで髪の毛を伸ばしている、と聴いていたので
待ち合わせ場所に、どんな風貌で現れるのか、楽しみにしていた。


実際にお会いしてみると、洋服も地味で、あまりに普通であり
自分を誇示することは一切なかった。


ただ、何か特別なことを話しているわけでもないのに
目が合うと、何故か涙がこみ上げてきそうになる。


それほどハートで生きている人だった。


スウェットロッジやサンダンスのこと、彼の歩んできた道についてなど
貴重な話を聴けたことも嬉しかったが
彼の存在そのものの素晴らしさと一緒に居られたこと
それが何よりのプレゼントだった。


かけがえのないご縁に感謝である。


投稿者 haruki : 2009年04月08日 23:40

田の字型という間取り


長い間、多くの古民家を観てきたが
越後奥寂庵も含め、例外なく「田の字型」の間取りだった。
文字通り「田」の形をした間取りである。


私は、小学校4年生までは社宅住まい
その後は、普通の住宅に住んできたので
田の字型の間取りでの生活は、体験がない。


以前、地元の方と、その方の家の前で立ち話をしていた時
大きくて立派な家であることを褒めるとこう言われた。


「昔ながらの田の字型の家だから」


廊下もない、田の字型での生活を想像すると
部屋と部屋がふすまで仕切られているだけなので
台所や洗面所の行こうとすると、他の部屋を通らなければならない。


プライバシーがない環境である。



悩みを持って相談に来る方の話のなかで
嫌な思い出として、よく聴くことがある。


それは、思春期の頃、親に自分の部屋に無断で入られて掃除をされる体験や
自分宛のはがきや手紙、日記などを親に読まれる体験である。


自分の子どもであっても、親の所有物ではないので
子どもを一人の人間として尊重すべきだと思うし
特に思春期になれば、秘密を持つことは子どもにとって自立への大切な要素となる。


子どもを愛しているからこそ、心配をし、面倒をみる親の気持ちもわかるが
同時に、子どもの秘密や尊厳をも大事にして貰いたいと思う。


ただ、田の字型の間取りを観ていて、このようなことは
単に、個々の関係性に寄るものだけではないと、思うようになった。



私たちの心、身体、精神は、意識するしないにかかわらず、環境の影響を受ける。
家族との関係はもちろんであるが
生活空間である住環境から受ける影響も大きいと思う。


日本は何百年と、田の字型の間取りにふすまや障子という生活空間だった。


それは、個を重んじる家造りではなく
部屋を繋ぎ、人の和を大切にした家造りである。


冠婚葬祭時には、ふすまが外されて大広間となり
ハレの舞台となることからもうなずける。


ふすまや障子で仕切られた家では、何処にいても
家族の気配や息づかいが感じられ
家族は各々の状態を、言葉を交わさなくても
察することができたのではないだろうか。


そのような環境から私たちは、言葉で確認し合うことよりも
察しあうこと、気持ちを汲み取ること、息を合わすことなど
非言語レベルの関わりと感受性を発達させていったのだろう。


また、ふすまや障子という淡い境界であるために
「親しき仲にも礼儀あり」という諺が示すように
逆に、礼節、義、仁、惻隠という日本的な美質が培われたように思う。



ところが、ここ数十年ほどで、住環境は大きく変わった。


1960年頃から文化住宅という和洋折衷の住宅が建ち始め
最近では、壁それ自体が構造物となるツーバイフォー、ツーバイシックス工法など
アメリカ生まれの家が多くなった。


マンションはもちろんのこと、そのような家は
部屋を繋ぎ、人の和を優先した家造りではなく
部屋を明確に分け、個を重んじることを優先した家である。


鍵をかければ家族から離れ、自分の世界に没入できることは
とても恵まれていることだ。


それは、西洋の「個」を重んじる良さであり
日本文化のなかに取り入れていく必要はある。


しかし同時に、気配を察するという非言語レベルの関わりと感受性が
長い年月をかけて、遺伝子レベルや民族的な集合無意識に染みついた
私たちにとって、混乱も生じているようにも思う。


頑丈な壁に仕切られた部屋にいる子どもの気配を感じ取ろうとしても難しく
西洋で長い年月をかけて形成されていった、個を重んじる関係の築き方もわからない親は
やむにやまれず、子どもの部屋に勝手に入り
子どもの状態を把握しようとしている部分もあるように思う。


また、「親子であろうとも人間として対等であり
責任と自己主張を伴う個人主義」が徹底されないなかで、子どもに個室を与えることは
子どもが周りへの気遣いをせず、好き勝手に行動する
一因となっているかもしれない。


数百年かけて培われた住まいの構造が、短期間に変われば
そこに住む人々の身体と心、関係性は、変化について行くことは難しいし
混乱するのが当たり前だろう。



日本は昔から、渡来するものを柔軟に吸収して
自分のものにするという懐の深さを持っているから悲観はしていない。


ただ、時間はかかるにしても
日本的な良さと弱さ、西洋的な良さと弱さ双方に目を向けて
どのように統合していくかを模索することは、大事だと思う。


投稿者 haruki : 2009年02月10日 01:53

味噌仕込み


節分の豆蒔きをした翌日の立春の今日、味噌を仕込んだ。


昨日のうちに、23キロの大豆を洗って水に浸しておいたので
今朝は、9時にご近所の方々が集まり、作業を開始。


2年前もお隣りのお庭で仕込ませて頂いたが
今年も、同じ場所に釜を置かせて頂く。


9時に伺った時点で、すでに釜に火を入れて
大豆を煮始めてくださっていた。


時々、大豆の柔らかさ加減を見るために、一粒ずつ食べてみるが
味付けを何もしていないにもかかわらず、これが美味しい。
自然な甘みだけで十分戴ける。


お湯が吹けば水を差し、薪を動かして火の調節をし
アクが溜まれば、取り除く。


そのような作業をしながら、ご近所の方々と雑談をして
楽しい時間を過ごす。


1時間半で、丁度良い柔らかさになった。



軽トラの荷台に養生シートを敷き詰めてアルコール除菌をし
ミンサーを乗せて、次の行程の準備をする。


軟らかくなった大豆を水切りし、どんどんミンサーに入れていき
ミンチ状になった大豆を、養生シートに均一に広げていく。


大豆が冷めたところで塩を撒き、まんべんなくかき混ぜ
その後に米麹と麦麹を撒いて、丁寧に混ぜる。


混ぜ終わると、団子状に丸めていく。


この作業は、かなりの力仕事である。


ちなみに、下の画像の団子は、総量の1/4である。



今回は、大豆の量が多かったので
これまでの行程をもう一度繰り返す。


この行程がすべて終わり
消毒した樽に、空気が入らないように、しっかりと詰め込む。


最後に、表面に塩を撒き、ラップをかけてフタをして終了。


終わったのは午後1時半。
4時間半の作業で、総量85キロの味噌を仕込むことができた。



終了後、外で、ご近所の方々とビールやお酒を飲みながら
それぞれが持ち寄った、炊き込みご飯、おにぎり、豚汁
漬け物、惣菜、お汁粉を食べて、幸せなひとときを過ごした。


半年後に、樽を開けて天地返しをするが
今回の味噌はどんな味になっていることだろう。


今から楽しみである。


投稿者 haruki : 2009年02月04日 22:30

奥への憧れ


17年前に、一番近い個人商店まで車で20分という
南アルプスの過疎村で過ごしたことが影響しているのか
それ以来ずっと、新聞もテレビもない、世間から隔絶された
自然に囲まれた環境に憧れてきた。


住まいのみならず、神社や寺院にしても
京都や鎌倉よりも、山麓にあるものの方に、何故か惹かれる自分がいる。


20年前は、年に数回、高野山に行ったものだ。
奥の院に続く道が好きだった。
特に御廟の橋を越えてからの空間は特別で
身が引き締まっていた記憶がある。


この10年間は、戸隠の奥社が気に入っている。
宝光社、中社を経て、戸隠山に近づいていき
鏡池から歩いて随神門に至り
圧倒されそうな杉並木を歩いて奥社に向かう。
奥社に向かえば向かうほど、気持ちが高まると同時に静まってくる。


気がつけば、実際の生活環境も
引越の度ごとに、東京から奥へ奥へと移り
「奥」に惹かれ続けている自分がいる。


そして今、「奥」に導かれて越後まで達し
越後奥寂庵に辿り着いた。



朝、集落の外れにある氏神様の前を通った。
丁度、朝日が鳥居に当たり、美しい光景だったので
思わずカメラを取り出して撮影した。


この氏神様も私のお気に入りの場所である。
なぜなら、集落の外れにあり、神聖な空間だから。


最近、「奥」というのは、私が惹かれるだけではなく
日本人の精神を現しているように感じている。



ヨーロッパなどでは、精神的支柱である教会は
高い塔をそびえさせて、街の中心に位置している。
それは、街の何処からでも見ることができるし
教会を中心にして街が成り立っているとも言える。


このように、しっかりと存在感を示す、父性的で全能なる神も素晴らしい。


対照的に日本では、集落にある氏神様は、集落の外れにあり
鳥居は外から見えるけれど、その奥は鎮守の杜に囲まれていて
奥行きがあり、何があるのかが全くわからない。


神道の知識がないので、全くの誤解かもしれないが
感覚として日本の神は、このように全く存在感を感じさせない
奥ゆかしい母性的な神であるように感じる。


興味深いことに、存在感がないが故に
「奥」は「空」となり、吸引力を生み出し
私たちは、磁力のように「奥」に引き寄せられるのではないだろうか。


また、「奥」は母胎のように受容してくれる場所でもある。


私たちは、「参道」を通って「お宮」にお参りに行くが
「産道」を通って「子宮」に向かう母胎回帰を象徴しているように思う。


そのようにして、私たちは、お参りに行くたびに
死と再生を繰り返している。



日本の昔の家屋も、神社仏閣のように奥行きのある空間を持たせていると
以前読んだ、藤原成一氏の本に書かれてあった。


「昔の家屋は、物質的身体的快適さや安全性よりも
 精神的なものを肌身で感じることが快さであり
 それを感じさせてくれる家が求められた」


「物心両面において、ひかえ目で質素簡素にして清潔
 そしてなによりも奥行きがあることが、家に求められる快さであった」


越後奥寂庵もそうだが、確かに昔の家屋は
玄関から入ると土間があり
履き物を脱いで上がり框から板の間に上がり
茶の間、上座敷、奥座敷へと向かうようにできている。
 

実際、越後奥寂庵で玄関から奥に向かって歩いていくと
高野山の奥の院、戸隠の奥社に向かうような
神聖さが増していく感覚がある。


特に奥座敷は、他の部屋とは違い
何かに引き寄せられるものがある。


そして、奥座敷のさらに奥には床の間があり
床の間の空間は、あたかも異次元への入口であるかのように
さらに奥にある「何か」の気配を感じさせてくれる。


藤原成一氏は、さらに続ける。


「神は清浄清明なところに宿る。奥は神の在所として、清浄清明に保たれてきた。
 空っぽに保たれてきた。イエや集落において奥であるところ
 床の間や神社は、世俗の入らない唯一の空っぽの地である」


「核の中では、心身ともに清浄でなければならない。
 心身を浄化するために、奥への道筋が設けられた。
 奥行きは、空間と心身を清浄にするためのものであった」



私は、人の表面的な言葉の背後にあるもの
こころの奥にある「美質」に意識を向ける仕事をしていることも
この「奥への憧れ」から来ているかもしれないと、最近思う。


そして、人のこころの奥にある「美質」に近づくときも
私自身、心身を清浄にしていくことが大事だろう。



存在感を誇示しない、奥ゆかしさという美徳
言葉の背後にあるものを察する感性
背後にあるものを感じたとしても、そのままにしておく情感


そのような日本人にとって大切な美質を意識して
これからも人と関わりたいと、あらためて強く思う。


投稿者 haruki : 2009年01月29日 01:48

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