宵の明星


夕方6時頃、ふと窓の外に目を向けると
薄暗くなった空に、雪山が浮かび上がっていた。


冬の空、月光に照らされて浮かび上がる雪山を観るのが、私はとても好きだ。
もしかしたら、一年で一番好きな光景かもしれない。


私は、いろんなジャンルの音楽が好きだし
その時々の気分でお気に入りのCDは変わる。
でも、お気に入りのCDを一枚だけ選ぶのなら
Kamalの「Blue Dawn(蒼い夜明け)」だろう。


このCDの音は、月光に照らされて浮かび上がる雪山のイメージにぴったりなのだ。
透明感のある洗練された音楽は、ピーンと透き通った空気感と静寂さが現れている。


陽が沈み、闇が徐々に染み入ってくる。
この闇というのは、決して怖いものではなく
闇には闇の美しさがある。


それは、沈黙の美しさ。


その沈黙のなかで創造性は開花し
神話や芸術が生まれてきたのだ。


そんなことに思いを馳せながら山を観ていると
山頂の少し上に宵の明星が見えた。


後ろを振り向くと、満月に近い月が昇ってきていた。


「ようこそ、私たちの世界へ」と
月、星、山々に歓迎されているような気分になった。


徐々に自分のなかの創造性が開花していく。



たまに、夜9時頃に東京の仕事場に向かうことがある。
街灯がない森では、9時というとすでに真夜中である。


東京には11時を過ぎて着くが
都会では、たくさんの人々が騒ぎ
ネオンサインが眩しいほどに輝いている。


私は、森とは全く違うリアリティにいつも当惑する。
このリアリティの違いには慣れることはない。


投稿者 haruki : 2007年01月31日 23:19

味噌造り


今日は、近所の人達と味噌を造った。
否、味噌を仕込んだと言う方が正しい。


水に漬けた14キロの大豆を、地元の農家から借りた大釜で煮炊きし
ミンチ状に潰し、軽トラの荷台に養生シートを敷き、その上に拡げて冷ます。
冷えてから米麹、麦麹と塩を撒き、念入りにかき混ぜる。
そして一旦団子状にこねてから、樽に空気を入れないように詰め
焼酎を噴き、最後に塩をふってラップをかけて終了。


この作業を、2年前に仕込んだ味噌で作った豚汁
自家製の高菜漬けやおにぎりを食べながら
ワイワイ楽しんで行った。


涼しい場所で熟成させ、早ければ半年後には食べられる。
でも、本当に美味しいのは2年後。
これからは人間の仕事ではなく乳酸菌や酵母の仕事だ。


発酵食品は冷蔵庫のない時代、保存食として重宝されたが
昔は人工保存料や人工発酵というものがなかったので
酵母や細菌など自然界にあるものだけを使い、出来上がるまでに時間がかかった。


日本では味噌以外に、醤油、酢、酒、納豆、漬け物など
様々な発酵食品があり、時間がかかるものが多い。
しかも人間は環境を整えるだけで、酵母や細菌のような「他力」の仕事となる。


そのような長い年月が基準となった昔の生活は
「コンビニエンス」「ファーストフード」という言葉に象徴される現代のリズムとは
全く異なったタイム感だ。



先日、地元の温泉で知り合いと話していて
ショックを受けたことがある。


地元で林業を営む初老の男性から聴いた話だった。


「大人になって林業に携わって、何十年も木を植えているがよぉ
 植えた木がお金になる頃にゃあ、俺はもう生きていねぇんだ。」


何というタイム感だろう。


自然とともに生きることは、インスタントなものではなく
とても時間を有することだった。


そのタイム感は、生産性や効率性に価値を置く現代人の思考からすれば
無駄な勿体ない時間かもしれない。


しかし、自然を征服するのではなく
自然と共生し、自然のリズムとともに生きることは
現代社会では得られない豊かさをもたらしてくれるように思う。


あたかも食品が自然のリズムで発酵することによって
味わいに深みがでるかのように。


私も、インスタントなものではなく
自然のリズムで「他力」とともに成熟していきたいと思った。


投稿者 haruki : 2007年02月08日 22:48

桜の木に支えられた思い出


一昨日、まだ観光名所になっていない
地元の人しか知らない桜並木に行ってきた。


ここは、村のはずれにある農道沿いの桜並木で
とてものんびりした空気が流れている。


まさに「スローライフ」という言葉がぴったりの場所だ。


この場所が、旅行雑誌に掲載され
観光バスが行き来し、たくさんの人が押し寄せて
賑やかにならないことを祈ろう。


「ひっそりと佇む美しさが保たれますように。」



なぜ私たち日本人は、これほど桜に惹かれるのだろう。
この答えは、皆それぞれ違うと思う。


私は小学校を二度転校したこともあるだろうが
私にとっての桜は、転校した学校での新学期の始業式のイメージと重なる。


期待と不安とが入り交じった登校初日、校庭にはたくさんの桜が咲いていた。


友達がまだ一人もいない初日、桜の木の下に座って
在校生が校庭で元気にボール遊びをしているのを
羨ましさとともに眺めていたことを思い出す。


そんな心細い私の背中を、満開の桜の木は支えてくれていたのだった。


日本では新学期を4月と決めたのは
その頃の人々が季節のリズム、自然のリズムに調和していた証拠だと思う。


新しいものが生まれるエネルギーに満ち溢れる季節に
新学期を迎えられたことは幸せだった。


桜の木に感謝。


投稿者 haruki : 2007年04月14日 01:32

小さき花


昨夜、知人の法華宗のご住職とお会いした時に、私にこう仰った。


「その年齢で、もう森に住んでいるのかぁ。
 でも、そのくらいで森に住むのはいいかもしれない。」


ヒンドゥー教では人間の一生を4つの時期に分ける、ということが
五木寛之さんの著書「他力」に書かれてある。


社会に出るまでの準備期間である「学生期」
家族を支え、社会に貢献する「家住期」
独りになり、自然のなかで自己と対話をする「林住期」
天寿を全うする日が近いことを悟る「遊行期」


五木さんは「林住期」について、こう書き下ろしている。


「五十歳を過ぎれば晴耕雨読の人間らしい生活
 内面生活に親しむべきだ、ということでしょう。」
 

ご住職が、「林住期」のことをご存じで仰ったかどうかはわからないが
自然のなかに住むことの大切さを知っているからこそ
そう仰ったことはわかった。



四十代後半に入り、「こんなことは今までになかった」という身体症状が生じ
自分が人生の下り坂に入っている現実と向き合うことになった。


私は、まだ十分社会に貢献していないと感じているから
林住期には入っていないと思っているが
自然のなかに住むことは、自分が下り坂に入っている現実を
受け入れることを容易にしてくれる、と最近感じる。


「その現実を受け入れなければならない」と努力するのではなく
知らないうちに、それが自然の成り行きだと受け入れている自分がいる。


「私たちは自然の一部であり、生かし生かされている。
 すべての存在には生老病死という自然の流れがあり
 私もその流れのままに、自然とともに在りたい。」

 
どうやら自然のなかにいると、このことを知的レベルではなく
深くで感じているようなのだ。


仮に、頭では認めたがらないとしても
自然と共鳴している身体や魂から否が応でも知らされる
ということなのかもしれない。


そしてそれは、深刻さをもたらすのではなく
生きることを楽にさせてくれるのであった。


このような死生観に基づいて、人間の尊厳を考えることは
医療、教育、福祉の質を変えるのではないだろうか。



選民思想のような価値観で、自然界の中で人間が優位に立つのではなく
自然界に存在するあらゆる生命を、人間と同じように尊い命と感じたい。


アッシジの聖フランチェスコが亡くなる際
回りに居た弟子達は、最後に発せられるお言葉に耳を済ましていた。


その際の聖フランチェスコのお言葉は、弟子達に対してではなく
弱った彼を、いつも背中に乗せていたロバへの感謝の言葉だったという。


聖フランチェスコには足元にも及ばないが
彼のような、生命に上下を付けない「小さき花」でありたいと思う。


投稿者 haruki : 2007年06月27日 23:49

年に一度の出会い


先日は、織女とひこ星が出会う七夕だった。


年に一度だけ出会うからこそ
私たちは七夕に特別な想いを持ち、祭る。


森に住むようになってから、私にとっての七夕は特別の意味がある。


それは、七夕の時期になると、家の前にある沢に
源氏蛍が20〜30匹飛ぶからだ。


7時から8時にかけて、窓から外を見ると
緑色の光が音もなく飛んでいる。


暗闇の静けさのなか、沢や森を緑色の蛍が自由に飛び回る光景は
とても神秘的で、毎年感動する。


心の深いところの何かが、震える。


これが一年中飛んでいたなら、これだけ感動するだろうか。



悲しいことに、私たちは当たり前になると
感動もありがたみも、感じられないことが多い。


年に一度だからこそ、私たちは感動し
「今ここ」に居ることができるのだと思う。


野菜にしても、その時期にしか食べられないからこそ
旬の野菜を十分に味わって食べることができる。


私たちは、便利さの恩恵を受けているが
不便であるからこそ、得られる恩恵もある。


それは、新鮮と感じる心、今ここにいる感覚、感謝
そして日本人として「季節の風物詩」を味わう心だ。


私たちは便利さによって、大切な質を失っているかもしれない。


投稿者 haruki : 2007年07月13日 01:38

黄金色の風景


今、田圃では、稲穂は頭を垂れ、稲の葉は黄緑色になり
遠くからは、田圃が黄金色に輝いて見える。


自分のエッセイの画像を振り返って観てみると
田圃の画像が多いことに、あらためて気づく。


このエッセイを始めるまで
これほど田圃の画像を撮るとは
予想だにしていなかった。


春、田圃に水が入り、水面に風景が映り風景が深くなっていた。
上の画像は、春先のエッセイ、「氏神様」で載せた画像と
同じ構図で撮影したものだが、同じ風景でも季節が変わると
こうも違う印象を与えてくれる。


森の緑を映していた水面は、今ではまるで黄金色の絨毯のようだ。



その後には、田植えがあった。
腰を屈めて植えられた小さな苗が、少しずつ育っていった。


植えられてすぐの頃は、少し緑色はしているものの
まだ、風景を水面が映し出していた。


そして梅雨の時期に、苗はぐんぐんと成長し
夏になると、青空と積乱雲の下
田圃は深い緑色で、そよ風になびいていた。


そして秋の今、一面の黄金色になり、収穫の時期を向かえている。



このように木で稲架を組んで
刈り取った稲穂を掛けていく天日干しは
まだまだこの地には多い。


コンバインで刈り取って火力で乾燥させる行程に比べると
天日干しは、人の手で行うので
かなり手間暇がかかるらしい。


それでも、天日干しにするのは、味が如実に違うから。



コンバインで刈り取って、火力で急激に乾燥させるのとは違い
自然の太陽の光ものと、徐々に乾燥させていくことで
米が割れにくいそうだ。


そして刈り取られた後も、最後の最後まで
栄養分を米に送っていると聞いたこともある。


ありがたいことに、もうすぐ天日干しの新米が店先に並ぶ。


天日干しを行っている農家の方々に感謝である。



黄金色の田圃の上には
赤とんぼがたくさん飛んでいた。


その光景を見ていたら、「赤とんぼ」を口ずさんでいた。


20代、30代と、唱歌を口ずさむことはなかったが
このように里山の近くに住むようになって
唱歌というものが、里山の風景をいかに美しく表現しているか
よく分かった。


唱歌の表現する日本の美しさが、なるべく多く残されますように。


投稿者 haruki : 2007年09月19日 22:01

光り輝くとき


昨年の今頃のエッセイを読んでみると
7月13日に、源氏蛍のことを書いていた。


丁度一年後の今、また家の前の沢に
源氏蛍が20〜30匹飛んでいる。


一年前に書いたエッセイと
同じことを今年も感じている。


同じことを感じているのに
新鮮な気持ちでいることが嬉しい。



蛍は、カレンダーもないのに
毎年、同じ時期に光り輝き飛びまわる。


梅の花も、桜の花も、桃の花も、ハナミズキの花も
カレンダーもないのに
申し合わせたように一斉に咲く。


私たちも、内面にあるリズムを信頼することができるなら
他者の評価によって自己価値が上下することもなく
機が熟せば、自ずと花咲き、光り輝くことだろう。


投稿者 haruki : 2008年07月11日 20:59

雪掻き三昧


越後奥寂庵だよりにも書いたが
先週は、豪雪地帯にある越後奥寂庵で5時間雪掻きをしてきた。


そして今日は、八ヶ岳セラピールーム緋彩で
2時間近く、雪掻きをした。


越後奥寂庵での、凄まじい豪雪を体験していると
緋彩の雪を観て、楽勝だな、と感じる。


越後奥寂庵での雪掻き体験がなかったなら
緋彩での雪掻きは、難儀に感じたことだろう。


人間は、比較によって認識しているのがよく分かる。



以前、北信州の飯山に住む知人がこう言っていた。


「雪が降らない地域に住んでいる人が羨ましい。
 だって毎日の雪掻きのために、どれだけの時間が無駄になっていることか。
 朝早くに起きて、雪掻きをしてから仕事に行かなくてはならない。
 その時間があれば、本も読めるし好きなことができるのに。」


確かに、豪雪地帯だったら、ひと冬の雪掻きに費やす時間は
凄い時間になるだろう。


それを数年単位で換算してみたら、雪掻きの時間と労力がなければ
何かを成し遂げることができると思う。


ただ、マイナスの面だけではなく、プラスの面もあるように思う。


雪掻きをしていると、頭がからっぽになり
今の瞬間に集中する。


身体感覚にも敏感になるし、足腰も鍛えられる。


忍耐強くもなる。


豪雪地帯で生活をされている方には
「なにを甘っちょろいことを言って」と叱責されそうだが
そのような心身への恩恵もあると思う。


越後奥寂庵で感じる、地元の方々の懐の深さと優しさは
豪雪という厳しさのなかで育まれたように感じるのは
果たして思い違いだろうか。


投稿者 haruki : 2010年02月02日 23:04

トラクターの威力


昨夜は、3時間半しか眠っていなかったが
朝起きて雨が上がっているのを確認して、実行することにした。


実行するのは、休耕地の開墾作業。


実は1年前、里山にある休耕地を地元の方からお借りしたが
この1年ずっと忙しくて、昨年は結局、刈払いもできなかった。


今年こそは、周囲の畑と田んぼに迷惑がかからないよう
せめて刈払いだけはしようと思っていたし
できるなら少しずつ開墾して、菜園を作りたいという思いもあった。


先週、休耕地の前を通ったときに
雑草がかなり背を伸ばしているのを目の当たりにしたことと
先週購入した越前と土佐の鍬を試したい気持ちもあったので
雨が降らなければ、今日開墾を始めようと決めていた。



休耕地に、鍬、鎌、刈払機、レーキ、シャベルなどを持って行く。


周囲の畑と田んぼの広さに比べると
休耕地は小さく見えていたが
実際に刈払いを始めると、広いこと広いこと。


100坪近くはあると思う。


刈払いが済み、刈った雑草をレーキで集める。


そして、鍬で土を耕していくが
長い間、休耕地になっていたのだろう
敷地一面に、ヨモギの根っこが蔓延っていた。


途方に暮れていると
お隣りの畑で作業をしていた知人が、声をかけてくださる。


「趣味で行うんだから
 楽しく農作業をしないとね。
 一度にやろうとするのではなく
 気長に、毎年少しずつ開墾して
 菜園を拡げていけばいいんだから。」


それもそうだな、と思い直して
開墾をしていると、車が停まり声が聞こえた。


声の主は、近くに住む知人だった。


「刈った草を脇にはけてくれれば
 トラクターを持ってきて一気にやってやるよ。
 トラクターだったら、このくらいの面積なら3分だから。」


10分ほどしたら、大きなトラクターがやってきた。


凄い勢いで土を耕していく。


感動ものだった。


感謝の気持ちを伝えてから
どのようにお礼をすればいいかを聴くと、こう言われた。


「そんなのいいんだよ。ボランティアさ。」


ありがたい。今度、お酒でも持って行こう。



越後奥寂庵にいたときに、好意で除雪作業を
あっという間にしてくれたことを思い出す。


越後は、摩訶不思議な土地で
何か困ったことがあると、必ず村人と出会って解決できたが
山梨もそうなんだ、と実感した。


大地の近くにいると、そのような共時的なことが起きるのかもしれないし
私が行くべき方向に、導いてくれているのかもしれない。


3時間半しか眠っていなくても
身心ともに、活き活きする農作業。


身心が活き活きすることは、自分へのメッセージ。


これからも時間が許す限り、農作業をしよう。


投稿者 haruki : 2010年05月25日 21:49

体得するということ


不便な場所に住んでいると
インターネットの恩恵を受けていることを実感する。


欲しい情報は、世界中から容易に手に入れることができるし
書籍にしてもCDにしても、森に居ながらにして手に入るのだから。


以前なら欲しい書籍は、都心の大手書店まで
わざわざ買いに出かけなければ行けなかったわけだから
インターネットは本当にありがたい。


メールにしても、日本にいる友人より
ブラジルにいる友人の方がレスポンスよくやり取りできる。


不思議でならないほど、便利な世の中である。



最近、「日本力」という本を読んだ。


編集工学者、松岡正剛氏と
写真家、エバレット・ブラウン氏の対談である。


この本は、日本人というものを考える上で
素晴らしい洞察に満ちていたので、面白くて一気に読んだ。



「ある場所に身を置くことで、初めて体得できるものがある」
という思いは、以前から強かった。


小学5年生から一人旅が好きで
その場所に行って、そこの空気感を感じ取って
写真を撮り、テープにその場の音を録音していた。


日常とは異なる場所に身を置くことで
自分の気持ちや価値観が変わる。


その新鮮な自分で、人や自然に出会い
自分と対話をすることが好きで旅をしていた。


このような経験から
「ある場所に身を置くことで、初めて体得できるものがある」ことは
私にとって当たり前になったのだろう。


この感覚は、今でも大切にしていて
最近では二つのことが当てはまる。


一つは、「日本人とは何か」を体得するために
わざわざ越後奥寂庵を手に入れたこと。


それは、越後という日本的霊性の故郷で
日本人の精神構造を現している古民家に、自ら身を置いてみたかったし
その地に代々住んでいる方々に、住民として出会ってみたかったから。


もう一つは、畑をやり出したこと。


これは、鈴木大拙氏がいう「大地性」、松岡正剛氏がいう「土発性」という
日本的霊性を少しでも体得したかったから。



実際にその場所を訪れて、その場の空気感を全身で味わい
人や自然と直に出会うことは、時間もエネルギーも要することであるが
この「手間暇かけること」がいかに大切であるかを
「日本力」を読み、あらためて認識した。


インターネットで検索して、容易に得られる情報では
「日本力」のなかの表現を用いるなら
「自分が探している以上のものはやってこない」。


どうやら手間暇かけて、身体を使って興味のあることを繰り返し行うことで
心が深くまで耕され、その土壌の上に
共時的な出来事や新しいものが生み出されるようなのだ。


越後奥寂庵や畑で起こり始めた
人との偶然の出会いや、思いもよらない出来事は
私の心が、それぞれの地で深まりだしたことによるのだと思う。



反対に、その地域を訪れてもいないのに借り物の知識によって
その場所をあたかも知っているかのように錯覚してしまったり
人と直に出会わずに、うわさ話や他人の言動をもって
その人のことがわかったつもりになると
思い込みの世界に生きることになる。


私たちは悲しいかな
容易に、思い込みの世界にはまり込み
それが真実であると信じて疑わない傾向をもつ。


そこに気づきという光がもたらされなければ
無明の世界に生きることになり
残念ながら、現実から離れ、煩悩が止めどもなく生まれてしまうことだろう。


インターネットを通して容易に情報が入る現代では特に
サイトやメールに書かれている文章を読んだだけで
「わかった」と錯覚してしまうリスクが高いと思う。



現代社会は、リズムやサイクルがとても速い。


このような時代では、大量の情報を即座に取捨選択する必要があるので
手間暇かけることは、効率が悪いと感じるのも仕方ないことだ。


しかし、このような時代だからこそ
手間暇かけてでも、実際にある場所を訪れたり
人や自然と直に出会って深く共鳴したりするなど
自分の身体で体得することが、心を耕すことになるのではないだろうか。


そのような「手間暇」の積み重ねにより
容易に手に入る借り物の知識で自分を飾ることなく
周囲からの情報に惑わされることもなく
自分の内奥が深まり、豊かな土壌になると思う。


私は、インターネットの恩恵に感謝しつつも
手間暇かけて、場所、人、自然と直に出会い、自分の身体で体得することを
これからも大切にしたいと思う。


投稿者 haruki : 2010年09月14日 23:48

初雪


今朝起きて、窓の外を見ると
山の上が白くなっていた。


里山の木々は、紅葉し始めたところだけれど
山頂の雪を見ると、すぐそこまで冬が来ている感じがする。


紅葉が終わり、葉が落ちると冬に突入するだろう。



畑では、白菜、キャベツ、レタス、ブロッコリー、カリフラワー
スティックセニョールが大きくなり、畑に行くたびに収穫をしている。


残念ながら白菜は、苗を植える時期が少し早かったせいか
周りの畑に植わっている白菜に比べると、弱々しい。


季節に敏感にならないと、植える時期が分からないものだと痛感する。


「いつ何をすべきか」ということに敏感になることは
人間の成長にも通じることだと、農作業をしているとよく感じる。


ただ、いくら弱っていても、採れたての野菜は本当に美味しい。
白菜が、これほどみずみずしいものとは思わなかった。


最近植えた大根、ニンニク、小松菜、ほうれん草も
それぞれ元気に育っている。


タマネギ、エンドウ豆、スナックエンドウも早く植えよう。



毎年、この時期になると、地元の椎茸栽培をしている方に
薪ストーブ用の薪を持ってきて貰う。


軽トラからデッキに薪を積み上げた後
雑談をしていると、その方にこう言われた。


「畑、やっているねぇ。
 うちに使っていない農地があるんだよ。
 今、売りに出しているんだが
 もし売れなかったら、使ってもいいぞ。
 猿や鹿、猪が出るところだけれど、網を張れば大丈夫だから」


その方に教えて貰って、その場所に行ってみると
1反(300坪)以上ある農地だった。


用水路が通っているので水の心配もいらないし、良い土だ。


来年は、もっと畑を拡げたいと思っていた矢先だったので
とても嬉しかった。


その農地が売れてしまったとしても
休耕地を借りようと思っている。


来年は、耕耘機を手に入れないとな。



投稿者 haruki : 2010年11月02日 09:01

土の記憶


徐々に農道に軽トラが頻繁に行き交うようになっている。
ということは、そろそろ農作業の季節だということだ。


ホームセンターには、ジャガイモの種芋が売られているので
そろそろ畑を耕して、ジャガイモを植えよう。


昨年は、初めてジャガイモを植えたけれど
あまり上手くはできず、小粒のジャガイモしかできなかった。


今年は、大きなジャガイモをたくさん作りたい。


そのためには、土作りだと思って
最近は、中古の耕耘機を売っているお店によく顔を出している。



ここのところ、うちの畑の隣りが賑わっている。


それは、遺跡発掘作業が行われているから。


今年に入って、農地をユンボで掘り返していたので
区画整理をするのかと思っていたが
実は、縄文遺跡の発掘だった。


パーカッショニストの土取利行氏が以前、言っていた言葉を思い出した。


「この辺りは縄文銀座だからね。」


どんなものが出てくるのだろう。


この辺りでは、水煙文土器がよく出土されているので
立派なものが出るといいなぁ、と期待している。



うちの畑の下にも遺跡が、たぶんあると思う。
というのは、現在農作をしている畑や田んぼは遺跡発掘をしないだけで
うちの畑の周囲の休耕地はすべて、発掘調査をしているから。


ということは、農作業をしている地面の下には
縄文時代の生活の跡があるということだ。



狩猟採集民族の縄文人には以前から興味を持っていたが
このように、自分が土を耕している場所に
縄文人が生活していたということは
とても感慨深いし、縄文人をリアルに感じることができる。


さあ、今年も農作業に精を出すぞ。


投稿者 haruki : 2012年03月22日 17:50

自給自足を目指して


昨年は、東京オフィスの引っ越しなどで忙しく
畑にエネルギーを注ぐことができなかったが
今年は、せめて野菜だけでも自給自足に近い状態にしたいと思い
中古の耕耘機を購入し、農作業に励んでいる。


昨年までは万能鍬を使って耕していたが
人力では、毎日農作業ができないと限界がある。


耕耘機があると、楽に耕せるし
耕作面積が格段に拡がった。



ゴールデンウィーク中に、キュウリ、トマト、トウモロコシ、長ネギ
ピーマン、シシトウ、ナス、ジャガイモ、ズッキーニ、ハーブ類を植え
もう少し暖かくなったら、オクラ、ツルナシインゲン、ショウガ
ルッコラ、チンゲンサイなどを植える予定。



完全無農薬はもちろんのこと、自然栽培を目指しているので
動物性有機肥料は最小限にして、植物性有機肥料をメインに施した。


メインと言ってもかなり少なめ。


これでどのくらい収穫できるだろう。
少し不安だけれど、楽しみだ。




農作業の休憩に、水分を補給してひと休憩。


この時期は、風が爽やかで心地がいいし
新緑の山々の風景にも心が洗われる。


農作業をしていると、いろんなことに気づくし
人間にも当てはまることが、思っている以上に多い。


人間も自然の一部なので、当然と言えば当然なのだろう。


投稿者 haruki : 2012年05月15日 15:35

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