紅葉の賑わい


最近の森では、黄色や赤色に紅葉している樹、もう葉が落ちてしまった樹
青々と茂っている針葉樹など、様々な色合いを見ることができる。
とても賑やかな風景である。


この賑やかな風景もあともう少しすれば、葉っぱが落ち
針葉樹の緑色だけになってしまうので、多少寂しさを感じる。
そうなると、冬の訪れを感じることだろう。


確かに、広葉樹の葉っぱが落ちてしまうのは寂しいが
それに代わり、素晴らしい風景が拡がり始める。


それは、山々の姿だ。


寒くなると空気がピーンと澄み
山々の雄大な姿が木々の間から顔を出す。


そして、もう少しすればその山々に雪がかぶさり
その白い山に、いろんな色を太陽が映し出すことだろう。


自然は奪うだけではなく、必ず与えてくれる。
季節ごとに「死と再生」が行われている自然は素晴らしい。


投稿者 haruki : 2006年11月05日 13:20

春の兆し


東京では、梅が咲き始め、春を感じさせてくれる。


一方、山では、梅の蕾はしっかりと閉じているし
山には雪が覆い被さっている。


その景色を見ていると、まだ春という感じはしない。


しかし今日、家の敷地を歩いていて
山での「春の訪れ」を発見。


蕗の薹だ。


山に引っ越して、初めて迎えた春
蕗の薹を発見し、とても喜んだものだ。
大事に掘り返し、蕗が育つように別の場所に植えかえをした。


暖かくなるにつれて、蕗は凄い勢いで育ち
どんどん敷地を占領していった。


それはさすがに困るので、刈払機で刈るが
翌週にはもう葉っぱが出ている。


根を抜いたとしても、少しでも根が土に残っていると
そこから地下茎で拡がっていき、結局は人間の方が根負けしてしまう。


凄い生命力である。


この小さな蕗の薹が、暖かくなると一面の蕗畑になってしまうかと思うと
怖い感じもするが、やはり嬉しさの方が大きい。


「今年も春を知らせてくれてありがとう。芽吹きを歓迎するよ。」


蕗の薹に感謝。


投稿者 haruki : 2007年02月23日 22:13

自然の神々


先週の木曜日、花見には絶好の陽気だったので
毎年この時期に必ず訪れる、近所のお寺に行ってきた。


このお寺はテレビや雑誌でも話題になったせいか
毎年、訪れる人が増えているが
平日のせいか、思ったより人が出ていなかった。


このお寺の良さは
なんといっても、桜と水仙と雪山の構図の素晴らしさである。
自然の美しさのなかに、寺院があると言ってもよい。
また、山岳信仰とは関係のないお寺だと思うが
このようにして眺めると、あたかも雪山を祀っているようにも見える。


実際に、威厳ある神々しい山の姿には、畏敬の念が湧いてくる。



そしてもう一つ、このお寺には素晴らしいものがある。
それは、境内にある一本の桜の樹。


この桜の樹は、樹齢2000年だそうだ。
人間の平均寿命を80歳とすると
この桜は、人間の25倍もの人生を生きている。


同じ場所に2000年もの間、ずっと根付き
存在し続けている桜。


もし、桜に意識があるのなら
どんなものを観て、何を感じてきたのだろうか。


花見の時期が過ぎ、人気がなくなった頃に
桜の樹の前で静かに目を閉じ
こころの耳を澄ましてみたい、と思った。



アニミズムは原始的宗教と言われるが
温暖化が深刻な現代には
アニミズムの良さに目を向ける必要があると痛切に思う。


山尾三省さんの言葉を思い出す。


「土は無限の道場、詩はそこに正座する。」


まさにこの一本の桜の樹は、三省さんの言葉を体現していた。
私にとっては、この桜の樹も雪山も神である。


投稿者 haruki : 2007年04月08日 13:01

桜の木に支えられた思い出


一昨日、まだ観光名所になっていない
地元の人しか知らない桜並木に行ってきた。


ここは、村のはずれにある農道沿いの桜並木で
とてものんびりした空気が流れている。


まさに「スローライフ」という言葉がぴったりの場所だ。


この場所が、旅行雑誌に掲載され
観光バスが行き来し、たくさんの人が押し寄せて
賑やかにならないことを祈ろう。


「ひっそりと佇む美しさが保たれますように。」



なぜ私たち日本人は、これほど桜に惹かれるのだろう。
この答えは、皆それぞれ違うと思う。


私は小学校を二度転校したこともあるだろうが
私にとっての桜は、転校した学校での新学期の始業式のイメージと重なる。


期待と不安とが入り交じった登校初日、校庭にはたくさんの桜が咲いていた。


友達がまだ一人もいない初日、桜の木の下に座って
在校生が校庭で元気にボール遊びをしているのを
羨ましさとともに眺めていたことを思い出す。


そんな心細い私の背中を、満開の桜の木は支えてくれていたのだった。


日本では新学期を4月と決めたのは
その頃の人々が季節のリズム、自然のリズムに調和していた証拠だと思う。


新しいものが生まれるエネルギーに満ち溢れる季節に
新学期を迎えられたことは幸せだった。


桜の木に感謝。


投稿者 haruki : 2007年04月14日 01:32

柿の季節


里山にいると、干し柿にするために
軒先に柿が吊るされている光景をよく目にする。


生のままでは食べられない渋柿が
日の光によって、甘い食物になる。


最初にそのようなことを誰が発見したのだろう、と思いを馳せる。


また、柿は食べるだけではなく
古来から日本では柿渋として重宝されてきた。


柿渋は、柿の果実を搾った液を発酵させたものだ。
この柿渋は、おもに防腐剤として
木工品や建築の塗装の下地塗りとして用いられてきた。


現在は、新建材に取って代わられているが
シックハウス症状を起こさない塗料として
見直されている。


柿渋が塗られた柱や梁を見たことがあるが素晴らしかった。


なぜなら、元々の木材の味わいに
より深みを持たせているように見えたから。



聴き間違いでなければ
戦争中、漆喰の土蔵だと空から認識され、爆撃を受けるからと
土蔵に柿渋を塗ったそうだ。


実際に、里山では赤い壁の土蔵によく出合う。


私は戦後生まれではあるが、赤い壁の土蔵の前に立つと
その当時の人々の気持ちに、触れているようだった。


どんな思いでこの壁に柿渋を塗ったのだろう。


古い建物には、歴史が刻まれている。



その赤い壁の前に立った時
先日行った、介護予防教室のことが思い出された。


会場に、一組のご夫婦がいらした。
旦那さんは杖をつき、奥さんが付き添われていた。


様子を見ていると奥さんが
無理矢理、旦那さんを連れてきた感じだった。


教室が始まる前、旦那さんがトイレに行っている間に
奥さんと立ち話をした。


「あの人は中学を出てすぐに軍隊に入り、戦争をくぐり抜けてきた人でね。
 終戦後は、ずっと自衛隊にいたんですよ。
 だから、楽しむことをしてこなかった人なんです。
 それもあって、教室とかで人から指図されるのがとても嫌いでね。


 でもねぇ、心臓を煩っているから少しでも元気になって貰いたいと思って
 本人は嫌がるんですけど、何とか連れてきたんですよ。」


確かに旦那さんは、不機嫌そうな面持ちで椅子に座られた。


介護予防教室を行っている間
私は、その旦那さんのことを気にかけていた。


そこには太鼓を、表情一つ変えずに叩いている姿があった。



最後のシェアリングの時に、その方の表情が
初めて柔らかくなり、このように話をしてくださった。


「私は伊豆で生まれ育ちましたが
 太鼓を叩いている時に
 子供時代に、よく聴いていたお祭りのお囃子が思い出され
 自分がそのお囃子を叩いているようでした。


 楽しい時間でした。
 ありがとうございました。」


無表情だったその人の奥から、笑顔と輝きが現れたことが
何より嬉しくて、心からその方にお伝えした。


「ようこそ、お越しくださいました。
 こちらこそ、ありがとうございました。
 またお待ちしていますね。」


投稿者 haruki : 2007年11月23日 19:01

贅沢な食事


ゴールデンウィーク明けは
毎年、楽しみにしていることがある。


それは、ご夫妻で開いている家庭的な食堂で
山菜定食がメニューの載るからだ。


朝、ご夫妻で標高の高い山麓に入って山菜を採取し
それを料理して、定食にしてくれる。


山菜天ぷら(たらの芽、コシアブラ、コゴミなど)
筍の刺身
ウドの酢醤油漬け
ワラビの煮付け
筍ご飯
コシアブラご飯
お吸い物


それに地元の釣り名人が渓流で釣ってくる
天然岩魚の塩焼きが付いてくる。


ご夫妻の心がこもった贅沢な定食である。


幸せな瞬間だ。



そしてもう一つ、美味しい料理がメニューに載る。


コシアブラのパスタである。


山に住むまでは、コシアブラのことは知らなかったが
山に住み始めてから、地元の人によく言われたものだ。


「たらの芽よりも、断然コシアブラの方がうまいだよ。」


実際、口に入れた時の香りが素晴らしい。
春菊のえぐみを消して上品にしたような香りが
口の中に広がる。


一つのパスタに入れるコシアブラを採るだけでも
相当な労力だろうに、ご夫妻に感謝である。



家には、たらの木があり
この時期は、食事前にたらの芽を摘み
天ぷらにする。


捥ぎ立てのたらの芽の天ぷらは、本当に美味しい。


コシアブラと比較すること自体
無意味なことだ。


それぞれに良さがあるから。



私は食事に関しては、ストイックな信念はなく
美味しく食べられるものは何でも戴く。


それでも、地元で採れる旬のものを食べることには
心身ともが喜ぶような気がしてならない。


それは、人間も自然の一部だからなのかもしれない。


投稿者 haruki : 2008年05月07日 18:54

ニセアカシアの花


初夏のような陽気になると
川沿いには一斉に、ニセアカシアの白い花が咲き乱れる。


この花の香りは、とても甘いので
川沿いを運転して、この香りが漂ってくると
誘惑に勝てずに、車を停めて外に出て
鼻先を花に近づけて深呼吸をしてしまう。


そうすると、甘い香りが胸に広がっていく。


一度、天ぷらにして食べたことがあるが
やはり食べるより、この甘い香りの方が好きだ。


以前から気になっているのは、この花の名称である。


なぜ、「ニセ」と付くのだろう。


数年前にアマゾンに行った際
アカシアの木から抽出したオイルを買ったことがあり
同じような甘い香りだった。


アカシアに香りが似ていることから
誰かがニセアカシアと名付けたのだと、勝手に思っている。



東京から中央道を走り、甲府盆地を抜けていくと
南アルプスが正面に迫ってきて、その後に右前方に八ヶ岳が見えてくる。


いつも運転しながら、この景色を見ると嬉しくなってしまう。


しかし、この景色に見慣れていても
八ヶ岳が見える前に、同じような裾野をもつ茅ヶ岳が見えてくるので
一瞬、茅ヶ岳を八ヶ岳と見間違ってしまうことがある。


そのように見間違いをする人が多いのだろう。
茅ヶ岳には「にせやつ」という愛称が付いている。



私たちは、違いによって物事を認識していて
違いがあるからこそ、それぞれを別個のものと認識できる。


その違いを、個性、固有の質といってもいい。


人工的なものは別にしても
自然界にもともと存在するものには
高低、優劣というものはなく、存在するものすべてが平等だと思う。


そのような自然界にもともと存在するものに
「にせ」という名称を付けてしまうのは
暴力的なことではないだろうか。


そのようなスタンスから、すでに自然破壊は始まっている。



私たちは、主観から抜け出せないことから
自分を基準にして物事を捉えるのは仕方のないことだが
だからといって、自分以外の存在を軽んじてはいけないと思う。


それは人間関係でも同じこと。


「にせ」とまでは思わなくても
「自分の方が正しい、優れている」というスタンスで人と関わるなら
どんなに表面的には優しくしても
私たちは、相手に対して暴力を振るうことになる。


それは、本人は無自覚でも、ちょっとした仕草に現れる。


そのような無自覚な暴力によって
どれだけ多くの人が苦しみ、辛い思いをしていることだろう。


私たちは、自分のエゴの働きに意識的になる必要がある。


投稿者 haruki : 2009年05月23日 01:08

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