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初詣での出会い


三が日に、都内で初詣をした。


参道では、たくさんの人が行き交い
焼きそば、お好み焼きなどの屋台が脇をかため
威勢のいい呼び込みの声が響き
食欲をそそる匂いが漂ってくる。


普段は慌ただしく仕事をしているであろう人も
家族と幸せそうにゆったりと歩いている。


朝の満員電車は、ギスギスしていて苦手だが
参道を賑わす人々のなかにいるのは
人々の緩やかな気持ちが伝わってきて心地がいい。



山に戻ってから、山麓の神社にお参りをした。


三が日が終わったからなのか
山麓の神社には、誰一人いなかった。


この神社は、集落からずっと山の奥に入ったところにあるため
誰もいないと、少し心細い。


それでも、新しいしめ縄が張られていることから
新年の雰囲気が漂っていた。



神社の脇の方に佇む小さな石仏に目がとまる。


説明書きが何もない苔むした石仏。


苔で何が彫られているのかわからないが
紙垂の間から見せる顔から
狛犬とは対照的な深い静けさを感じた。


脇の方で静かに佇む在り方から
「自分が自分が」という「我」が少しも感じられない。


そのような在り方に憧れる。


名も無き小さな石仏に出会えてよかった。


一年の始まりの良き出会いに、感謝。


投稿者 haruki : 2009年01月05日 16:49

奥への憧れ


17年前に、一番近い個人商店まで車で20分という
南アルプスの過疎村で過ごしたことが影響しているのか
それ以来ずっと、新聞もテレビもない、世間から隔絶された
自然に囲まれた環境に憧れてきた。


住まいのみならず、神社や寺院にしても
京都や鎌倉よりも、山麓にあるものの方に、何故か惹かれる自分がいる。


20年前は、年に数回、高野山に行ったものだ。
奥の院に続く道が好きだった。
特に御廟の橋を越えてからの空間は特別で
身が引き締まっていた記憶がある。


この10年間は、戸隠の奥社が気に入っている。
宝光社、中社を経て、戸隠山に近づいていき
鏡池から歩いて随神門に至り
圧倒されそうな杉並木を歩いて奥社に向かう。
奥社に向かえば向かうほど、気持ちが高まると同時に静まってくる。


気がつけば、実際の生活環境も
引越の度ごとに、東京から奥へ奥へと移り
「奥」に惹かれ続けている自分がいる。


そして今、「奥」に導かれて越後まで達し
越後奥寂庵に辿り着いた。



朝、集落の外れにある氏神様の前を通った。
丁度、朝日が鳥居に当たり、美しい光景だったので
思わずカメラを取り出して撮影した。


この氏神様も私のお気に入りの場所である。
なぜなら、集落の外れにあり、神聖な空間だから。


最近、「奥」というのは、私が惹かれるだけではなく
日本人の精神を現しているように感じている。



ヨーロッパなどでは、精神的支柱である教会は
高い塔をそびえさせて、街の中心に位置している。
それは、街の何処からでも見ることができるし
教会を中心にして街が成り立っているとも言える。


このように、しっかりと存在感を示す、父性的で全能なる神も素晴らしい。


対照的に日本では、集落にある氏神様は、集落の外れにあり
鳥居は外から見えるけれど、その奥は鎮守の杜に囲まれていて
奥行きがあり、何があるのかが全くわからない。


神道の知識がないので、全くの誤解かもしれないが
感覚として日本の神は、このように全く存在感を感じさせない
奥ゆかしい母性的な神であるように感じる。


興味深いことに、存在感がないが故に
「奥」は「空」となり、吸引力を生み出し
私たちは、磁力のように「奥」に引き寄せられるのではないだろうか。


また、「奥」は母胎のように受容してくれる場所でもある。


私たちは、「参道」を通って「お宮」にお参りに行くが
「産道」を通って「子宮」に向かう母胎回帰を象徴しているように思う。


そのようにして、私たちは、お参りに行くたびに
死と再生を繰り返している。



日本の昔の家屋も、神社仏閣のように奥行きのある空間を持たせていると
以前読んだ、藤原成一氏の本に書かれてあった。


「昔の家屋は、物質的身体的快適さや安全性よりも
 精神的なものを肌身で感じることが快さであり
 それを感じさせてくれる家が求められた」


「物心両面において、ひかえ目で質素簡素にして清潔
 そしてなによりも奥行きがあることが、家に求められる快さであった」


越後奥寂庵もそうだが、確かに昔の家屋は
玄関から入ると土間があり
履き物を脱いで上がり框から板の間に上がり
茶の間、上座敷、奥座敷へと向かうようにできている。
 

実際、越後奥寂庵で玄関から奥に向かって歩いていくと
高野山の奥の院、戸隠の奥社に向かうような
神聖さが増していく感覚がある。


特に奥座敷は、他の部屋とは違い
何かに引き寄せられるものがある。


そして、奥座敷のさらに奥には床の間があり
床の間の空間は、あたかも異次元への入口であるかのように
さらに奥にある「何か」の気配を感じさせてくれる。


藤原成一氏は、さらに続ける。


「神は清浄清明なところに宿る。奥は神の在所として、清浄清明に保たれてきた。
 空っぽに保たれてきた。イエや集落において奥であるところ
 床の間や神社は、世俗の入らない唯一の空っぽの地である」


「核の中では、心身ともに清浄でなければならない。
 心身を浄化するために、奥への道筋が設けられた。
 奥行きは、空間と心身を清浄にするためのものであった」



私は、人の表面的な言葉の背後にあるもの
こころの奥にある「美質」に意識を向ける仕事をしていることも
この「奥への憧れ」から来ているかもしれないと、最近思う。


そして、人のこころの奥にある「美質」に近づくときも
私自身、心身を清浄にしていくことが大事だろう。



存在感を誇示しない、奥ゆかしさという美徳
言葉の背後にあるものを察する感性
背後にあるものを感じたとしても、そのままにしておく情感


そのような日本人にとって大切な美質を意識して
これからも人と関わりたいと、あらためて強く思う。


投稿者 haruki : 2009年01月29日 01:48

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