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無為の行為からの音


今日は、初夏のような陽気だったので
夜は、網戸で過ごす。


網戸にすると、夜の冷気と静けさが家に染み入ってくる。
それとともに遠くの里の田圃からカエルの合唱が聞こえてくる。


目を閉じ、音楽もテレビもない静けさのなか
ただ、遠くからのカエルの合唱に耳を済ましていると
季節を感じることはもちろんだが、心の琴線に触れる。


秋の夜に鈴虫の音に耳を済ますときと、同じ琴線に触れる。


それはなぜだろう。


私は、カエルの合唱や鈴虫の音は
静けさを遮る音ではなく、静けさに溶け入る音
私たちの心を、静けさのなかに埋没させてくれる音のように想う。


それは、あたかも山水画のようでもあり
禅寺にある獅子脅しのようでもある。


人工的に創り出した無音の環境よりも
むしろこのようなカエルの合唱や鈴虫の音があった方が
心の内にある静寂に至ることができるのかもしれない。


自然が奏でる音は、世界で著名な演奏家の演奏に引けを取らないと思う。
否、それ以上のものかもしれない。


なぜなら、表現しようという意図すらない無為の行為だから。


この無為の行為からの音だからこそ
私たちは、静寂に導かれるのだろう。



このような感覚を日本人は、古来から大事にしてきた。


日本人に生まれてきたことに感謝しつつも
日本人としてこの感覚を大切に育み
多くの人に分かち合いたいと思う。


投稿者 haruki : 2007年06月07日 00:05

害獣という名の動物


里山での田畑では、農作物が成長し
地元の店には、旬の野菜が並んでいる。
しかもありがたいことに、無農薬有機栽培の野菜が多い。


その日の朝に収穫した新鮮な野菜や、地元農家の天日干しの米が
都会より安く手に入ることは、生産地に暮らす良さだろう。


しかし、生産地に暮らすということは
いろんなことを考えさせられる。


里人との会話で必ず出る話題は、農作物の被害についてだ。
それも「害獣」と呼ばれる猪、猿、鹿について。


時期が来ると、迷彩服にオレンジ色の派手なベストを着たハンター達が
猟犬を従えて「害獣駆除」の名目で山に入ってくる。
遠くに響き渡る散弾銃の音を聞くと、心が痛む。


猿だけは、駆除をするのに報酬が出るらしい。
駆除をする際に、子猿は人間の子供に見えるから
ハンター達は、撃ちたがらないそうだ。


子猿は、散弾銃で狙いを定められると
ハンターに向かって手を合わせ、祈るような仕草をする
と聞いたことがある。



里人の立場に立ってみると、お金と時間と愛情を注ぎ込んだ田畑が
動物たちに根こそぎ荒らされるなら、経済的損失は言うに及ばず
感情的に許せない気持ちになるのも理解できる。


都会に居ると、お金を支払いさえすれば、食材は簡単に手に入り
生産地で起きていることまでは思いも及ばない。
食材は、料理の単なる材料でしかない。


しかし生産地に暮らしてみると、食肉はもちろんのこと
農作物も、多くの命の犠牲の上に存在することを痛感する。


私たちのために犠牲となった多くの命に対して、感謝の祈りを捧げ
「生かさせて頂いている」という謙虚さをもって生きることが
人間としての責任ではないだろうか。



最近、命を軽んじる事件が多い。
命を軽んじる背景には、「人間は多くの命によって生かされている」という現実を
肌で感じる機会が少なくなっていることもあるように思う。


動物に対する感謝の気持ちをもち、動物を害獣ではなく神や神の使者とみなしている
アラスカやアイヌなどの先住民族の智慧や生き方からも
私たちは多くを学べるはずだ。


私たちの生活は、多くの命の犠牲の上に成り立っている。
その事実を、しっかりと受け止める必要がある。


投稿者 haruki : 2007年06月14日 11:33

素晴らしき山村との出合い


今日は、梅雨の時期にもかかわらず、初夏の爽やかな気候だったので
近頃行ってみたいと思っていた山村に向かった。


いつもは、別の村に行くために
この山村近くのインターチェンジは通り過ぎていた。
だから今日初めて、このインターチェンジで降りる。


天気がよく、山並みが遠くまで、くっきりと見えたこともあり
山深い土地にもかかわらず、それほど閉鎖的な感じがせず
とても気に入った。



いつも家から眺めている山々も気に入っているが
ここで眺める山々は、印象が違って見える。


いつも眺めている山々は、家が山麓にあることもあって
山々の懐に私個人が抱かれている感じがする。


それに比べて今日眺めた山々は、遠くに長く連なり
大袈裟な言い方だが、日本列島を支えている感じがした。
まさに「日本の屋根」と呼ばれるには相応しい、堂々たる存在感だ。



このような山深い土地で、農業をされている方々が居ることも驚いた。
天気の良い日に、観光気分で車で走っていると気持ちいい。
しかし、一生、このような山深い土地に暮らすことは、厳しいことだと思う。


道路脇の石碑には「農魂」と刻まれていた。


このような決意を持たないと、この土地で農業はできないのだろう。
辛い時には、この言葉を心に刻み込み、自分を奮い立たせるのかもしれない。


都会に育った私にとっては、想像を絶する世界だ。



また、それだけ厳しい環境だからこそ
信仰心も育まれ、霊性も鍛えられるのかもしれない。


この山村の入口には、変わった道祖神が祀られている。


滑稽で親しみを持って旅の安全を守ってくれると同時に
邪悪なものを村に入れないような恐さを持つ道祖神。


正月のしめ縄で作ると説明書きにあった。
毎年、年の初めに、一年の祈りを込めて作るのだろう。


親しみと恐さを持つ神というのは
村人たちの神に対する想いを反映していると思った。


これらの神々は、決して遠くにいるのではなく
近くで見守ってくれる存在たちだった。



山村には、棚田があり
その向こうに、集落がぽつりぽつりと点在していた。


日本人の原風景のような光景で
原田泰治さんの絵の世界が、そこには拡がっていた。


素晴らしい山村との出合いがあった、良い一日だった。


投稿者 haruki : 2007年06月17日 00:02

小さき花


昨夜、知人の法華宗のご住職とお会いした時に、私にこう仰った。


「その年齢で、もう森に住んでいるのかぁ。
 でも、そのくらいで森に住むのはいいかもしれない。」


ヒンドゥー教では人間の一生を4つの時期に分ける、ということが
五木寛之さんの著書「他力」に書かれてある。


社会に出るまでの準備期間である「学生期」
家族を支え、社会に貢献する「家住期」
独りになり、自然のなかで自己と対話をする「林住期」
天寿を全うする日が近いことを悟る「遊行期」


五木さんは「林住期」について、こう書き下ろしている。


「五十歳を過ぎれば晴耕雨読の人間らしい生活
 内面生活に親しむべきだ、ということでしょう。」
 

ご住職が、「林住期」のことをご存じで仰ったかどうかはわからないが
自然のなかに住むことの大切さを知っているからこそ
そう仰ったことはわかった。



四十代後半に入り、「こんなことは今までになかった」という身体症状が生じ
自分が人生の下り坂に入っている現実と向き合うことになった。


私は、まだ十分社会に貢献していないと感じているから
林住期には入っていないと思っているが
自然のなかに住むことは、自分が下り坂に入っている現実を
受け入れることを容易にしてくれる、と最近感じる。


「その現実を受け入れなければならない」と努力するのではなく
知らないうちに、それが自然の成り行きだと受け入れている自分がいる。


「私たちは自然の一部であり、生かし生かされている。
 すべての存在には生老病死という自然の流れがあり
 私もその流れのままに、自然とともに在りたい。」

 
どうやら自然のなかにいると、このことを知的レベルではなく
深くで感じているようなのだ。


仮に、頭では認めたがらないとしても
自然と共鳴している身体や魂から否が応でも知らされる
ということなのかもしれない。


そしてそれは、深刻さをもたらすのではなく
生きることを楽にさせてくれるのであった。


このような死生観に基づいて、人間の尊厳を考えることは
医療、教育、福祉の質を変えるのではないだろうか。



選民思想のような価値観で、自然界の中で人間が優位に立つのではなく
自然界に存在するあらゆる生命を、人間と同じように尊い命と感じたい。


アッシジの聖フランチェスコが亡くなる際
回りに居た弟子達は、最後に発せられるお言葉に耳を済ましていた。


その際の聖フランチェスコのお言葉は、弟子達に対してではなく
弱った彼を、いつも背中に乗せていたロバへの感謝の言葉だったという。


聖フランチェスコには足元にも及ばないが
彼のような、生命に上下を付けない「小さき花」でありたいと思う。


投稿者 haruki : 2007年06月27日 23:49

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