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可愛らしい石仏たち


今日、ある村を初めて訪れたが
新緑の森を背景に、八重桜と菜の花が咲いていた。


思いがけず美しい風景と出合える瞬間は
感動をもたらしてくれる。


今日も美しい風景に出合えることができた。
遠くまで来た甲斐があったものだ。


角を曲がり、後ろを振り返ると
その風景のなかに、石仏が並んでいた。


新しい石仏で、顔の表情がなんとも可愛らしく
八重桜と菜の花が背後に見えることもあるだろうが
今にも踊り出しそうに見えた。


「おい、ずっと同じ姿勢で突っ立ってないで
 踊りながら春を祝おうじゃないか。」


「そうだな、今夜は祝祭の踊りだ!」


そんな会話が聞こえそうだった。



この石仏には、チューリップがお供えしてあった。


お地蔵さんなどへのお供え物を観るたびに
どんな人が、どんな気持ちでお供えをしているのだろう、と思う。


投稿者 haruki : 2007年05月02日 23:49

露天風呂での出会い


先日、地元の温泉の露天風呂で
83歳になるというお爺さんに声をかけて頂いた。


生まれた時から、兵役の数年を除いて
ずっとこの地に住まわれているとのことだった。
現在も現役で田植えをされている。


「今じゃ、田植えをするにしても
 トラクターやコンバインなどを買い揃えると1000万になる。
 それじゃ、今の私らでできる田圃で米を作っても、利益は出ないんじゃ。
 でもなぁ、代々続いている土地じゃから
 やめるわけにはいかんだよ」

 
お子さん達は町に出て行ってしまったこと
村の組の人数も減っていること
山はお金にはならないこと・・・などなど
いろんな苦労話を伺った。


心のなかに「何か必要な時には声をかけてください」という言葉が浮かぶが
軽はずみなことは言えなかった。


それは、実際に手伝える時間がないからでもあったが
その方の人生、その方の家の歴史、村のしきたりに対する敬意からだった。


そのような苦労をされていても
「きたりもん」の私に対して寛容で
別れ際にこんなことを言ってくださった。


「空気が綺麗で、自然豊かなこの土地を十分楽しんでくだされ。」


別れてからも、私の心には温かさと切なさが入り交じり
「今の自分に、何か出来ることはないだろうか」という思いに、この日も駆られた。


投稿者 haruki : 2007年05月11日 00:03

氏神様


最近、里山の田圃に水が入った。


田圃に水が入ると、風景が一変する。
なぜなら、水面に風景が映り、景色に深みが出るからだ。


田圃の水面に映る風景を観ていて
東山魁夷の「緑響く」を思い出した。


最初に「緑響く」を観た時、湖面に映る逆さの風景が
みごとに描かれていて、感動したものだ。


魁夷画伯の描く絵は、画伯の心象風景であるとともに
多くの日本人の心象風景でもある。
だからこそ魁夷画伯の絵は、多くの日本人の共感を得ているのだろう。
私は「緑響く」を前にして、この風景のなかに入ってみたいと思っていた。


今日、集落のはずれにある農道を車で走っていて
ふと窓の外に目をやると、「緑響く」と似ている風景が飛び込んできた。


「緑響く」のような幻想的な風景ではないが
田圃に映る緑は、画伯の心象風景の世界に足を踏み入れた気がした。



「緑響く」では、水辺に白馬が描かれているが
私が撮った画像では、白馬の位置に鳥居がある。


田畑という生活の場に、精神的な支えとなる聖域があるのは
なんと素晴らしいことではないだろうか。


自然と身近な神々に対し、畏敬の念と感謝の気持ちを抱き
大地に根づいた生活を日々繰り返すことこそが
日本的霊性の象徴であるように思う。


里山では、そのような生活が延々と続いているからこそ
里人は懐が深く、優しいのではないだろうか。


最近、心が痛む事件が新聞を賑わしているが
このような時代には、日本にもともと在る「大地の生活に根づいた霊性」を
取り戻す必要があると痛切に思う。


投稿者 haruki : 2007年05月16日 23:55

神話への親和力


今日も、田圃の水面の魅力に惹きつけられて
車を停めては、シャッターを押した。


霧と同様、水面にも惹き付けられる自分がいる。


子供の頃、水溜まりに映る景色を見て
不思議な感覚を感じていたものだ。


あたかも景色を映す水溜まりが、異次元への入口のように感じたことを
鮮明に覚えている。


子供の頃は、いろんな場所に異次元への入口があった。
道路脇にあるお稲荷さんのほこらや、石の階段の隙間など。


そのような創造性から、個人的な神話の世界が生まれていったのかもしれない。
それだけ子供は、無意識と親和性があるのだろう。


大人に成長する過程で教育を受け、社会に出ていき
私たちの現実適応力は培われていく。
それは自我形成にとっては大切なことだ。


でも、現実しか見えなくなってしまうと
子供の頃に感じていた、神話の世界を私たちは忘れてしまう。
その忘却は、人生を味気ないものにしてしまうと思う。


里山には、大人になって忘却の彼方に追いやられた
神話や無意識への親和力がある。


特に里山には、日本人としての集合無意識を想起させる力がある。
それを題材にしたのが「となりのトトロ」だろう。



水面の映る空を観ていると吸い込まれそうになる。


実際は、田圃の水深は10センチほどだろうが
映し出される空を観ていると
無限の空間が奥底に拡がっているように感じる。


霧も水面も、個人的神話や心象世界を映し出してくれるからこそ
惹かれるのかもしれない。


投稿者 haruki : 2007年05月17日 22:59

大地と向き合う


里山では、今が田植えの季節。


冬には閑散としていた農道は
軽トラや苗を積んだトラックで賑わっている。


現在は、殆どの田圃では田植機を使用して苗を植えているが
それでも田植機では植えられない場所や、植え付けが抜けている箇所には
手作業で苗を植えている。


私が子供の頃は、東京でも腰がかなり曲がったご老人をお見かけしたが
最近、東京ではそのような方にお目にかからない。


しかし里山では、まだまだ腰の曲がっている方をよくお見かけする。


長い年月、田植えや畑仕事をしていると
このような姿勢が定着してしまうのだろう。



このような姿勢は、身体にとって無理な姿勢なので
腰はもちろんのこと、身体のいろんな部位に負荷がかかり
痛みが生じやすかったり呼吸も浅くなりやすい。
実際、腰痛を患っている方は多いと思う。


と同時に、長い時間この姿勢で作業をしていると
下半身はどんなに鍛えられることだろう。


また、私たちの心と身体は相関しているので
落ち込んだり抑鬱的な気分になると、頭が垂れ
背中が丸くなり猫背になる。


だから、腰が90度曲がっているご老人を観るにつけ
「空は見にくいし、下ばかり見ていると、気持ちも暗くなるのではないか」
という思いがあった。


それは当事者に訊いてみないとわからないことだが
ただ、下を向くということを、ネガティブに捉えている自分に気づいた。



この方達の生活は、大地と向き合っている生活だった。


人生の大半を大地と向き合っている方達は
どんな人生観、価値観をお持ちなのだろう。


「希望を抱いて上を向き、胸を張って生きていくこと」も大切なことだ。
しかし、大地と向き合って生きることは
別のリアリティを与えてくれるのかもしれない。


宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出した。


投稿者 haruki : 2007年05月23日 13:22

大勢のお父さん


昨日は、夕方になり雨が上がったので温泉に行く。


露天風呂に入ると、いつも決まって地元の方達が会話をしている。
彼らの話題は、熊の出没についてや、農作物の出来不出来についてなど
生活に根づいたものなので、ついつい聞き耳を立ててしまう。


昨日は、お爺さんとお孫さんとの会話が、目を閉じている私の耳に入ってきた。
具体的な内容まではぼんやり聴いていたのでわからなかったが
お爺さんは元気な小さな女の子に少し手を焼いているようだった。


「そんなことをしているとおじさん達に笑われるぞ」
というお爺さんの言葉が聞こえてきた。


「そういう言い方をするから人の目を気にするようになるのに」
と思って目を開ける。


でもその場に流れていた空気は、微笑ましいものだった。


お爺さんの表情はなんとも穏やかで、優しいまなざしを女の子に向けていて
回りにいる地元の年配の方達も、笑顔でその女の子を見つめていた。


女の子も、皆から注目を浴びて恥ずかしがりながらも嬉しそうだった。



温泉から上がり脱衣所で服を着ていると
先ほどの女の子が、アイスクリームを食べながら私に近づき
「おじさん、さっき露天風呂に居たね」と話しかけてくる。


女の子の問いかけに応えているうちに
「おじさんもアイスクリーム食べない?」と、女の子は私を連れて食堂に走り出す。


一緒にアイスクリームを食べながら女の子の話を聴いていた。
お爺さんお婆さんと温泉に来ていること
お母さんが車で迎えに来ること
お父さんは単身赴任で中国に居てなかなか戻ってこないこと
戻ってこないお父さんが嫌いなことなど。


そんな話を私としている間も、地元の年配の男性達が女の子に声をかけていく。



里山では、何らかの事情で父親が不在でも、祖父など親戚はもちろんのこと
同じ集落に住む大人の男性達が、父親代わりになっている。
里山には、集落全体で子供を育てるという共同体が残っていた。


都会で、このように見ず知らずの子供と一緒にアイスクリームを食べていたら
親に警戒されたり怒られるかもしれない。
悲惨な事件がよく起きている現代では、それは致し方ないことだ。


しかし、大家族や共同体という社会的な器が失われていくことは
家族という器を脆いものにしていくように思えてならない。


都会に居ても、里山に残る「人への信頼」「思いやり」を大切にしたいと思った。


投稿者 haruki : 2007年05月31日 14:27

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