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雪景色


この冬、初めて一面銀世界になった。


朝、目を覚ますと、視界の片隅にいつもと違う風景が飛び込んできた。


「雪だ!」


雪がチラチラ舞っている風景見たさに
飛び起きて、窓辺に向かう。


カーテンを開けると、一面雪景色。
自然と心が躍り出す。


現実的には雪かきなど不便なことが多くなるのに
嬉しくなるのは、子供の頃から変わらない。


雪は、一夜にして別世界をもたらしてくれる。
これほどまでに短期間に別世界をもたらしてくれるものは
災害を除いて、雪しかないのではないだろうか。


そして雪は、静けさをもたらしてくれる。
なによりこの静けさが好きだ。


この静けさは、私のなかにある静けさを
目覚めさせてくれる。


投稿者 haruki : 2007年01月06日 15:47

霧の魅力


今日は比較的暖かいせいか、霧が出ていた。


霧が出ると、木々、山々が幻想的な風景となる。
まるで木々や山々に魂が宿り、私に何かを語りかけてくるようだ。


子供時代の夢は、写真家になることだった。
中学時代は、自分の部屋を暗室にして写真を焼くほど熱中していた。


小学校高学年では蒸気機関車に惹かれ
中学生では宿場町、街道、寺院に魅せられて
写真を撮っていた。


そのなかに、印象的な一枚の写真がある。
箱根に残る石畳の街道を撮ったもので
霧が立ちこめているなかに街道が続いている写真だ。


もう30年以上も前なのに、その写真を撮った時の空気感を
リアルに思い出すことができる。


その頃から霧に魅せられている。



私は東山魁夷の絵画が大好きだ。


それは私が感じている霧の魅力、霧の空気感が
見事なまでに描かれているからだと思う。


なぜ私は、日本の風景が好きなのだろう。


都会暮らしをしていた頃は、そのような空気感を感じる余裕はなかったが
森に暮らすようになって、子供の頃に感じていた
日本的な原風景に再び惹かれるようになった。


同じ自然でも、日本の自然に対して特に親和性が高いのは
日本人として自然なことなのかもしれない。


投稿者 haruki : 2007年01月17日 20:41

蔵の街


車を1時間走らせ、蔵の街に出かける。


その街には、昔ながらの古い蔵もあれば
新しく建てられた蔵もある。


新しい蔵があるにしても
蔵が並んでいる街並みには惹きつけられるものがある。
それらの蔵は、こだわりのある蕎麦屋や喫茶店であったり
ランプ、ガラス工芸、伝統工芸家具、骨董品などを扱う、品のいい店になっている。


水曜日は、殆どの店が定休日だが
それでも窓からなかを覗くと、それぞれ趣のある空間になっていて
覗くだけでも満足する。


一ヶ月ぶりに、とあるレストランに入る。
30代の夫婦が開いている、こぢんまりとした店で
趣味よし、味よし、もてなしよしのお気に入りのレストラン。
もちろん蔵の造りだ。


今日も期待を裏切らない料理だった。



ご夫婦と挨拶を交わし外に出て、蔵の街を後にして車を走らせる。
森に戻る帰路、不思議と後ろ髪を引かれる想いに襲われた。


人との出会いがあったせいだろうか
伝統的な落ち着いた空間に身を置いたせいだろうか。


それはたぶん、両方だろう。


自然も素晴らしいが、伝統に根ざした落ち着きもまた素晴らしい。


アメリカの町を歩いていて決して感じることのない
ヨーロッパの街並みを歩く時に感じる落ち着きと似ていた。


それは、文化に根づいた懐の深さなのかもしれない。
伝統的な文化に根づくことは、大事なことではないだろうか。


そこに還るとき、日本人としてのアイデンティティを見出すのかもしれない。


今日、その街の病院で目の悪い老婆と出会い、しばしの交流をもった。
日本人の母性的なこころの温かさ、芯の強さと謙虚さが
その老婆の何気ない言葉から、静かに心に染み入ってきた。


そのような精神性は
自然に囲まれた伝統的な文化のなかで育まれるような気がした。


投稿者 haruki : 2007年01月24日 21:57

民家と墓地


昼下がりの午後、カメラを持って車に乗り
近くにある里山の村に行ってみる。


心惹かれた風景に出合うと車を停めて
ファインダーを覗き、シャッターを押す。


集落から少し離れたところに、一件の民家があった。
冬山が背景に聳える里山の風景だ。


「これは絵になる」と思い、ファインダーを覗くと
左側にある墓地が邪魔に思えた。


しかし帰りの運転中に、ふと思い浮かんだことがある。
「一昔前、先祖代々の墓は、このように家の裏にあり
 祖先や親族の亡骸は身近にあったのだ」と。


「先祖供養」という言葉は、都会に居ると
法外なお布施を求める新興宗教のようなイメージがある。
でも実際は、このように身近に先祖の亡骸が眠り
先祖に対して、敬う気持ちや守られている感覚が感じられて
自ずと供養の気持ちが生じたのだろう。


家の裏に墓があれば
インドのガンジス河岸での火葬、チベットの鳥葬まではいかなくても
死を受容していくプロセスを十分経験することが可能だと思う。


都会で死がどんどん隠されているのとは反対に
里山では、まだ死が身近にある。



30年前に都会から移り住んだ先輩が同じ地域に住んでいる。
彼はこう言った。


「30年経っても村人からは『きたりもん』と呼ばれる。
 それどころか、三世代くらいじゃまだ新参者なんだよ。」


その言葉を聞いた時は正直、「村人は、何でそこまで閉鎖的なんだ」と思った。
でも村人にしてみると、十世代以上も前からこの地に居るわけで
それだけ「この地に根づいている」ということなのだろう。


そのような根づきは、しがらみも多く窮屈な部分もあると思う。
もし私が若い頃にそのような地に居たら
苦しくて都会に飛び出していたことは明白だ。


でも、ある程度歳を重ねると
そのような「血」への根づきと、「地」への根づきを羨ましくも思う。


投稿者 haruki : 2007年01月25日 16:35

宵の明星


夕方6時頃、ふと窓の外に目を向けると
薄暗くなった空に、雪山が浮かび上がっていた。


冬の空、月光に照らされて浮かび上がる雪山を観るのが、私はとても好きだ。
もしかしたら、一年で一番好きな光景かもしれない。


私は、いろんなジャンルの音楽が好きだし
その時々の気分でお気に入りのCDは変わる。
でも、お気に入りのCDを一枚だけ選ぶのなら
Kamalの「Blue Dawn(蒼い夜明け)」だろう。


このCDの音は、月光に照らされて浮かび上がる雪山のイメージにぴったりなのだ。
透明感のある洗練された音楽は、ピーンと透き通った空気感と静寂さが現れている。


陽が沈み、闇が徐々に染み入ってくる。
この闇というのは、決して怖いものではなく
闇には闇の美しさがある。


それは、沈黙の美しさ。


その沈黙のなかで創造性は開花し
神話や芸術が生まれてきたのだ。


そんなことに思いを馳せながら山を観ていると
山頂の少し上に宵の明星が見えた。


後ろを振り向くと、満月に近い月が昇ってきていた。


「ようこそ、私たちの世界へ」と
月、星、山々に歓迎されているような気分になった。


徐々に自分のなかの創造性が開花していく。



たまに、夜9時頃に東京の仕事場に向かうことがある。
街灯がない森では、9時というとすでに真夜中である。


東京には11時を過ぎて着くが
都会では、たくさんの人々が騒ぎ
ネオンサインが眩しいほどに輝いている。


私は、森とは全く違うリアリティにいつも当惑する。
このリアリティの違いには慣れることはない。


投稿者 haruki : 2007年01月31日 23:19

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